「信長の野望・天道」連載(第4回)――上杉家リプレイ・天の巻「若頭、出入りは川中島じゃありやせんので?」:伸ばせ街道! 戦国ニッポン改造論(2/3 ページ)
いよいよ製品版をレビューしてみたい。選んだ武将はずばり、越後の雄・上杉(長尾)家。選んだのには、理由があります。
南北越後には未掌握の町並と資源が残されているのだが、意外なことにこれらの確保を急ぐ必要はない。周囲の大名家も、序盤はだいたい国境に沿ってナワバリを確保するため、無駄な衝突が生じる心配は少ないし、「馬」だの「皮布」だのといった資源は、それらを条件とする技術開発を始めるまで用のないシロモノである。町並については掌握するだけでいくばくか収入の足しになるのだが、そこまで道を引くには資金が必要だ。したがって、当面可能な投資案件がなくなるまで放置しておいてかまわない。「商館」からの収入がコンスタントに入ってくるようになった時点で道を引いても、十分間に合う。
以上のごとく、意外に細かな損得勘定で長尾一家の台所を改善するわけだが、なにしろ本作の身上は内政要素の簡素さなので、プレイ開始から3〜4年もすれば開発できる土地がなくなるはず。武勇に秀でた武将達に加えて、人後に落ちぬだけの兵隊が揃ったいまこそ、抗争の火蓋を切って落とす時期である。同盟の杯を交わしてくれなかった高脅威目標は伊達・蘆名・長野(「河越夜戦」イベントで北条に負けた山内上杉家の実権は、長野業正に握られる)の三家だが、第一の攻略目標は蘆名家としよう。伊達と違って城を一つしか持っていないので決着が早いと予測できるし、長野家の勢力拡大は盟友・村上家が抑えてくれると期待できるため、後に回してもかまわないと踏んだからだ。
南越後・春日山城に兵を5000ほど残し、残りの兵隊を景虎ら先発メンバー5人に持たせて、いったん北越後の新発田城へ。新発田城にいた兵も合わせ、あらためて家中のベストメンバー5人で蘆名家の会津領へ向かう。向こうもこちらも兵力は2万弱。長尾家には騎馬特性に秀でた連中が多いのだが、軍馬の十分な確保にはまだまだ時間がかかるので、今回は足軽中心の編成である。そんなわけでまだフルパワーじゃないとはいえ、総大将は近郷近在に名を轟かす毘沙門天マニアの“怪傑・白頭巾”。国境に築いた砦で待ち受ける蘆名盛氏勢を鎧袖一触で蹴散らす。……いや、本当に白頭巾が敵じゃなくてよかった。
敗走する蘆名勢を追って黒川城に向かう景虎軍団だが、蘆名との同盟に基づいて米沢城を出撃した伊達の親分さん、晴宗の軍勢1万2000ほどが後方から追いすがる。こちらも難なく蹴散らしたものの、さすがに度重なる戦闘で長尾勢の士気は低下している。いったん新発田まで後退して休養、再出撃の必要があるようだ。
負傷兵の治療を済ませ、あらためて新発田城を進発した2万5000の長尾勢に対し、先の戦で大損害をこうむった蘆名の阻止攻撃は力なく、黒川城は強襲を受けて陥落、蘆名家は滅亡した。ときに1550年5月のことである。救援に駆けつけた4部隊・都合2万5000ほどの伊達勢は、目の前で城が落ちるのを指をくわえて見るハメになった。機を見るに敏な伊達勢は、奪ったばかりで城が防御拠点としてほとんど機能せず、兵達の士気も回復していないタイミングで我が軍を叩くべく果敢に進撃を続けたものの、白頭巾とはしょせん役者の格が違うようだ。無理して城から打って出た、疲れ気味の長尾勢にもかかわらず、伊達勢はたちまち追い散らされる結果となった。
伊達勢を撃退した景虎軍団はそのまま城に戻って、負傷兵の治療にかかる。その間に、失業した蘆名一家の幹部のみなさんを再雇用する。このゲームで重要なのは武将の頭数であり、とくに序盤はよほどパラメータの低い人でなければ、軍事なり内政なり使い途がある。蘆名の家臣団をほとんど吸収して、城の修復やら募兵・軍馬調達奉行やら、町並の復興やらをそっくり任せてしまおう。しかるべき大名家の当主や世継の地位にあった武将は、程度の差こそあれオールラウンダーに設定されていることが多いため、たいがい召抱えて損はない。滅亡とは言い条、実態は吸収合併であり、彼らには長尾家の看板の下で引き続き活躍してもらうのだ。
そんな具合に会津黒川を固めた段階で、次にすべきことは何か? 賢明なる読者諸氏には見当がついていることと思うが、今度は伊達家の米沢城を攻めるのだ。蘆名救援の戦で徹底的に消耗したいまこそがチャンス。初期配置の関係もあって、伊達家は城を二つ持っているのだが、度重なる敗北で戦力をすり減らした伊達家は、北の西山城を相馬家に脅かされているらしく、米沢城は手薄だ。いっぽう黒川城にそのまま留め置いた長尾家の主力部隊は、新発田からの補充に加えて旧蘆名軍の吸収を済ませ、5万近くまで増えている。5000かそこらの守備兵力を黒川城に残し、2個軍団・4万4000の兵で進発する。この時点で米沢城は二の丸や改良型の城門を備えた堅塁となっていたため、一気に強襲するなら大兵力が必要だし、包囲して降伏させる場合は西山城から駆けつけるであろう援軍への備えが必要だ。そんなわけであえて大兵力を動員したのである。
比較的優秀な親族武将である長尾政景の軍団に米沢城を囲ませ、景虎軍団はさらに前に出して、西山城との連絡線を遮断する。この体制を見て伊達家も救援を諦めたらしく、城方は包囲下で士気を失っていき、1551年8月、ついに落城した。ただ、越後一国に会津領を加えただけの兵糧収入で4万の軍勢を動かし続けるのは無茶だというのが、この包囲戦の教訓でもあった。作戦遂行中に兵糧備蓄はぐんぐん減り続け、もう少しで底をつきそうだったのである。幸いなことに、伊達家のもう一つの城である西山城の攻略に当たって、敵にはもはや後詰がいない。そこで景虎軍団のみを攻略に振り当てることにした。落城は翌年1月のことである。伊達家随一の猛将として知られる鬼庭良直(左月)の武勇も、暴れ者揃いの長尾家にとっては“そこそこ”レベルにとどまるものの、例によって当主以下の有能な武将はほとんど召し出して、旧伊達領の統治と、我が軍の補強に当てる。
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