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「パックマン」「スペースインベーダー」の生みの親が明かす、ビデオゲーム黎明期の真実日々是遊戯

12月18日、19日に開催された日本デジタルゲーム学会の2010年次大会。初日の18日には、遠藤雅伸氏がモデレータを務める基調講演「日本ビデオゲームの黎明」が人気を集めました。

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なぜゲームには「ゲームオーバー」が生まれたのか?

今回のモデレーターを務めた遠藤雅伸氏。「ゼビウス」の生みの親としても有名

 デジタルゲームについての学術的研究を目的とし、2006年の設立以降様々な活動・研究を続けている「日本デジタルゲーム学会(DiGRA JAPAN)」。その2010年次大会が去る12月18日、19日の2日間、江東区の芝浦工業大学芝浦キャンパスにて開催されました。

 数あるプログラムの中でもやはり注目を集めたのは、日本デジタルゲーム学会理事であり、「ゼビウス」の生みの親としても知られる遠藤雅伸氏がモデレータを務めた初日の基調講演。「日本ビデオゲームの黎明」と題した同講演では遠藤氏のほか、「パックマン」の岩谷徹氏、「スペースインベーダー」の西角友宏氏、「ギャラクシアン」の石村繁一氏も登壇し、ビデオゲームという市場・文化がどのようにして生まれ、定着していったかが語られました。

ご存じ「パックマン」の開発者であり、現在は東京工芸大学の教授を務める岩谷徹氏
「スペースインベーダー」の開発者としても知られる、ドリームスの西角友宏氏
バンダイナムコゲームスの石村繁一氏。「ギャラクシアン」などの作品に関わる

 講演の中で特に印象に残ったのが、今となっては貴重な、ビデオゲーム黎明期の話題。石村氏によれば、日本にビデオゲームが入ってきたばかりのころは、いわゆる「エレメカ」と呼ばれる機械式のゲーム機が主流で、まだ技術的にも未成熟だったビデオゲームは、演出でもゲーム性でもエレメカに及ばなかったとのこと。

 その一例として岩谷氏があげたのが、中村製作所(後のナムコ)の「F1」というエレメカ。これは幻灯機を使ったレースゲームの一種で、筐体内部で透明なコース&F1カーの模型が回転しており、それを電球で照らすことで、正面のスクリーンに3Dのコースを映しだすというもの。こう書くとややチープな印象を受けますが、実際に動いている映像が再生されると、会場からはその迫力・スピード感に「おおー!」という驚きの声があがったほどでした。「ビデオゲームがCGなら、エレメカは特撮のようなもの。ありものの技術で、どうすればそれらしく見せられるかを考えていた」と西谷氏は当時を振り返ります。

 また岩谷氏によれば、「F1」では模型と光源とをなるべく近づけて配置することで、なるべくプレイヤーの視点を低くするよう工夫したとのこと。これは視点が路面に近くなるほどスピード感が増すためで、こうしたノウハウは後の「ポールポジション」や「リッジレーサー」にも受け継がれているそうです。

「昭和30年ごろのナムコ(中村製作所)では、1回5円で遊べる子供用の木馬をデパートの屋上に置いたりしていた。これもある意味ではバーチャルリアリティですよね。子供の頭の中では、本物の馬に乗って遊んでいるイメージ。やっていることは現代のゲームと同じなんです」と岩谷氏。ビデオゲームの台頭によって今では下火になってしまったエレメカですが、当時は「エレメカに追いつく」というのがビデオゲームのひとつの目標であり、エレメカ開発によって培われた技術や発想は、現代の現代のゲームにもしっかりと息づいていることがわかります。

岩谷氏が紹介した「F1」。大型スクリーン+筐体という構成は現在のレースゲームに近い
実際にプレイしている様子。3Dのコースがものすごいスピードで流れていく
実は筐体内部に透明なミニチュアのコースがあり、それを電球でスクリーンに投影している

デパートのゲームコーナーなどに置かれた「木馬」。当時のJRの初乗りも5円だったとか
黒板を使って「スカイファイター」の構造を説明する西角氏
岩谷氏も「サブマリン」の構造を解説。どれだけアナログな技術で作られていたかがわかる

 一方、エレメカからビデオゲームへと時代が移り変わっていくにつれ、ゲームのスタイルも大きく変わっていきました。岩谷氏によれば、当時のエレメカは1プレイ30円が基本で、そもそも「100円玉を入れるという発想がなかった」のだそう。またゲームの腕前にかかわらず、一定時間プレイすると自動的にゲームが終了するものが多かったとのことです。

 これに対し、ビデオゲームは当時から1プレイ100円が主流。その結果、100円という料金でも納得してもらえるようにと、プレイ時間は長くなり、ゲーム展開もよりドラマチックなものへと進化していきます。プレイ時間については、制限時間を廃し、ゲームオーバーを設けることで、上手な人はより長くプレイできるよう変更。またゲーム展開についても、例えば中盤にボスを配置し、それを乗り越えるともっと長く遊べる――といった具合に、進み具合に応じて変化をつけるようになっていった。これは、言い換えればゲームに「物語」が生まれた瞬間と言ってもいいかもしれません。

 今となっては「ゲームオーバー」や「物語」のないゲームなど考えられませんが、これらの要素が生まれるきっかけが、「1プレイ100円」というビデオゲームの料金設定にあった――というのは興味深い発見でした。

初期のゲームはCPUを使わず、論理回路だけで構成されていたというから驚き
「ブロック崩し」の元になったという「クリーンスイープ」

 そのほか講演では、生みの親である西角氏から「スペースインベーダー」の開発秘話が明かされたり、当時のゲームセンターと、それをとりまく社会背景などについて議論が交わされたりといった場面も。当時のゲーム業界の中心人物たちならではの熱のこもった対談に、会場からはしばしば感嘆の声があがっていました。

 「スペースインベーダー」のヒットから今年で32年目。来場者の中には、実際にこうした「エレメカ」で遊んだことはないという人も多く、こうした黎明期のエピソードが、今となっては非常に貴重なものになりつつあるということを改めて感じさせられました。こうした「ゲームの歴史」をまとめて、後生に伝えていくのも日本デジタルゲーム学会の重要な役割と言えるかもしれません。

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