「こ、これは!」「この発想はさすが!!」 「峠の釜めし」容器の再利用に目からウロコ、生コン詰めて“おもり”に(2/2 ページ)
地元に根付く「峠の釜めし愛」を再発見。再利用を推進する建材会社さんに聞きました。
「峠の釜めし」は、なぜファンに愛されているのか
峠の釜めしは、まず鉄道ファンに深く愛されています。峠の釜めしは1958年(昭和33年)2月1日に横川駅の駅弁として誕生しました。「温かいお弁当が求められている」と感じた当時の社長は、益子焼の土釜に入った駅弁を開発。口コミで評判を呼び、文藝春秋に掲載されたことをきっかけに大ヒットしました。
当時、軽井沢へ向かう列車は横川駅を通っていました。1958年10月18日、昭和天皇が富山国体へ行幸します。この折に横川駅で峠の釜めしがお召し列車に積み込まれました。この年は天皇陛下と美智子様がご婚約した年でもあります。「軽井沢テニスコートの恋」として軽井沢が脚光を浴びた年でもありました。
なお、横川駅から軽井沢の間は鉄道日本一の難所と言われた碓氷峠があります。この急勾配越えに挑む鉄道マンたちの命を掛けた物語なども鉄道ファンの心を今もぐっとつかんでいます。
この物語はさまざまな漫画や小説の題材になっています。「テツ語辞典」(関連記事)でイラストを描いた池田邦彦さんの漫画「エンジニール」にも登場します。この漫画では1912年(明治45年)以前の蒸気機関車で碓氷峠を越えていた時代の苦労が描かれています。
横川から軽井沢間は11キロ余りという短い距離ですが、標高差はなんと553メートルもあります。1893年(明治26年)の開通時は前代未聞の急勾配と言われました。この急勾配を越えるために採用されたのがアプト式。ギザギザの付いた特殊なレールと車両の歯車をかみ合わせて坂を上る方式です。開通当初は列車の立ち往生や逆走が相次ぎ、死傷事故も少なくありませんでした。乗務員はまさに命がけで運転をしていました。
そして山あいの地形。この短い区間にトンネルが26カ所もあります。蒸気機関車は煙が盛大に出ます。急勾配でスピードも出ない蒸気機関車が、トンネル内をもくもくと煙をあげて走る。乗客も乗務員も地獄のような苦しみでした。坂を登る列車がトンネルに入ると即座に入り口の幕を閉める「除煙幕」も使っていました。そんな煙への苦労もあり、明治45年日本で初めて電化が行われた路線でもあります。
そして1997年(平成9年)に長野新幹線が開通し、信越本線の横川ー軽井沢間は役目を終えて廃止となりました。2018年現在はふもとの横川駅に「鉄道文化むら」があり、ゆかりの深い車両や貴重な資料が展示されています。そして廃線跡は「アプトの道」という遊歩道になっています。鉄道旅行誌「旅と鉄道」編集部も「やはり特別な場所」(関連記事)と語るように、碓氷峠は鉄道ファンにとって特別な場所なのです。
一方、「峠の釜めし」を販売する“おぎのや”さんは2018年現在も横川駅前に本店を構えています。同社は1962年(昭和37年)に自動車旅行の増加に合わせてドライブインを開店。現在は上信越自動車・横川サービスエリア(上り)などにも出店していることもあり、鉄道ファンにとどまらず、ツーリングやドライブを楽しむオートバイファン、自動車ファンにも愛される味になっています。
(高橋ホイコ)
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