5月12日は「国際看護師の日」 フローレンス・ナイチンゲール生誕200年
病気やけがを直すために医療だけでは補えないもの、看護の大切さを自らの体験と知恵で証明した。
病院で一番お世話になるのは、看護師さんではないでしょうか。清潔な制服に身を包み、テキパキとした身のこなしでたくさんの機器を扱いながらも優しく声をかけてくれる、そんな看護師のイメージをつくったナイチンゲール。クリミア戦争で傷病兵の看護に尽力してその名が歴史に刻まれました。病気やけがを直すために医療だけでは補えないもの、看護の大切さを自らの体験と知恵で証明したのです。世界の偉人の1人として語り継がれるナイチンゲールの功績について振りかえるとともに、新型コロナウイルスとのたたかいの最中にある今、懸命に働いて下さっている医療関係者の皆さまへの感謝もこめたいと思います。
フィレンツェ生まれだからフローレンス、イギリスの裕福な家庭のお嬢様です
誕生したのがなんと2年にわたる両親の新婚旅行中だったというのですから、お金持ちぶりも想像できます。フローレンス・ナイチンゲールが生まれたのは今からちょうど200年前の1820年。当時受けた教育も破格です。語学、哲学、数学、歴史学、地理学、心理学に美術や音楽とあらゆる分野を学び天才ぶりを発揮しました。中でも得意だったのが数学。この能力が後にナイチンゲールの病院改革や看護学校設立のために、政府や軍部を説得する統計資料作成に発揮されるのです。
お嬢様育ちのフローレンスが看護に目覚めるのは、富めるものの義務である貧者救済の慈善活動がきっかけとなりました。1845年アイルランドでは、ジャガイモにまん延した疫病が原因の不作により大飢饉が起こり、多くの餓死者を出しました。これはイギリスにも大きな影響を与え貧窮する人々が急増したのです。貧困と病気による生活を強いられる人々の実情をみたフローレンスは、このような人々への奉仕の思いから看護の道を決意します。
当時看護の仕事は知識もなにもない人が病人の世話をするだけというもの。まして上流階層に属している者が携わる仕事ではないとさげすまれており、フローレンスにとっては周囲の強い反対を押し切っての行動となりました。
31歳の時ドイツの病院に付属する学校に滞在して看護を学んだ後、33歳でロンドンに帰ると女性専用の療養施設で看護の仕事を本格的に始めます。転機となったのは1854年にイギリスがクリミア戦争に参戦した時です。戦争の悲惨さを伝える連日の新聞記事に政府が看護師派遣を計画、それに応募したフローレンスは看護師14人、シスター24人からなる一団を率いて後方基地にある病院へ向かいました。
看護の一団が現地で遭遇したのは、病室への入室を禁じられるという拒否でした。兵士の病室に女性が入ることで風紀が乱れるというのが理由です。そこで彼女たちが行ったのは不衛生きわまりない病院のトイレの清掃でした。病院を清潔にしていくこの実績がかわれ、病院の改革が行われていきました。きれいな空気を取り入れる換気、身体の洗浄、シーツや繃帯の取りかえといった今では当たり前のことが行われていなかったのです。フローレンスは兵士が死に至るのは戦場の傷からではなく、病院の不衛生による感染症で命を落とすことに気づいていたのです。
もう一つ兵士たちを安心させたのは、常にそばで見守る見回りだったようです。夜はロウソクを手に静かにベッドの間を歩く彼女たちは本当に天使に見えたことでしょう。
病院で使われたさまざまな物資や資財はフローレンスが自ら多くを負担していました。その財力があってこそ成しえたこととも言えますね。ロンドンから料理人を連れてきて病院の料理を全く変えてしまう、ということもやって全力で尽くしたということです。現実を見て合理的に行動するまことにエネルギーあふれる天使です。
ナイチンゲールが本領を発揮するのはクリミア戦争から帰ってから!
1856年クリミア戦争は講和が成立して終わりをむかえ、戦地の病院が閉鎖されるとフローレンスもロンドンへ帰りました。フローレンスは戦地では認められなかった看護の重要性と権限の必要性を訴え、軍の医療体制の改革を求めるべく戦地での経験をレポートに纏めます。この時に自分の考えの正しいことを証明するために使ったのが数値データでした。得意の数学を発揮して戦争中の報告書から、病院の状況を分析したくさんの統計資料を作成したのです。兵士たちの亡くなった原因や予防可能であった疾病などを、分かりやすくグラフにまとめたレポートは、ヴィクトリア女王にも提出されました。次第に賛同する人も現れ軍の医療体制は改善の方向へ向かいました。
次にフローレンスが実行したのは、看護師を養成する学校を作ることでした。1859年にお父さんの遺産を注ぎ込んでセント・トーマス病院に看護学校を創設します。翌年から開始された教育ではフローレンスが完成させた「看護覚書」が使われ、今に至るまで看護教育のバイブルとして多くの看護師に読み継がれています。
その後もイギリス植民地における医療福祉に貢献するなど、多くの著作を残し1910年に90歳で亡くなります。
スイス生まれのアンリ=デュナンは1859年のイタリア統一戦争に参加し、戦場でフローレンスと同じような経験をしたことから彼女の活動に共感しました。戦場では敵味方なく救援されるべき、と考え設立を訴えたのが国際赤十字です。1864年に発足しています。フローレンスの起こした看護の活動は人々の共感を呼び大きく世界へと広がったのです。
フローレンスに続いて活躍する現代のナイチンゲールたち!
世界中が懸命に新型コロナウイルスの感染終息に向かって努力を続けている時です。最前線の命を守る現場で働いて下さっている医療従事者の皆さまには心からの感謝を申し上げます。それぞれの立場でチームの一員として協力しあい、患者の回復に努めて下さっている看護師の方々の根本には、ナイチンゲールの精神が宿っていることでしょう。
大変過酷な職業ですが、子供たちの「将来就きたい職業」で女の子の上位に「看護師」、その親が「就かせたい職業」のトップに「看護師」と人気の職業でもあります。現役の看護師さんの34%が「看護師になった理由」として「手に職をつけたかった」を挙げています。フローレンスが確立した「看護師」という職業が、専門職でありかつ安定した収入を得られるものとして高く評価されていることが分かります。そのためには3年~4年の看護系学科を卒業して国家試験に合格するという多くの勉学と実習の積み重ねが必須です。
今では必要不可欠な「看護師」の仕事もナイチンゲールの貧困と病気に苦しむ人の助けになりたい、という慈悲の心と踏み出す勇気がなければ、ここまで高度な学問として確立していなかったかもしれません。
医療にあらためて注目が集まる中迎えたフローレンス・ナイチンゲール生誕200年目のこの日は、防げる病から身体を守ることや、健康を維持していくことの大切さも学ぶことができるのではないでしょうか。一日も早く新型コロナウイルスに打ち勝ち、穏やかな日常が戻る日をともに祈りたいと思います。
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