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わたしは暴れん坊ガキでした――松本零士トークショー全掲載ニコニコ超会議(1/5 ページ)

ニコニコ超会議の超鉄道ブースで開催された松本零士氏のトークショーがあまりにも縦横無尽だったので全文掲載してみる。

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 4月28日、29日と千葉県・幕張メッセで開催された「ニコニコ超会議」。鉄オタとしても有名な向谷実氏がプロデュースした「超鉄道ブース」では、漫画家の松本零士氏を招いてのトークショーを開催。普通はまとめて記事にするところですが、やっぱり松本零士はただの男ではありませんでした。縦横無尽、さまざまな豪傑話が出てきて端折るのはもったいないので、全部掲載することにしました。お読みください。

向谷実氏(以下、敬称略) 超鉄道ブースのステージに、素晴らしいゲストをお招きしております。それではご紹介します。松本零士先生、よろしくお願いします。

松本零士氏(以下、敬称略) ご紹介頂きました、松本零士でございます。よろしくお願いいたします。

向谷 実は僕、松本零士先生とは初めてお会いするんです。よろしくお願いいたします。

松本 こちらこそよろしく。

画像 向谷実氏(写真左)と松本零士氏(写真右)

向谷 松本零士先生といえば、「銀河鉄道999」を初めとしていろいろな世界でお世話になっていますが、鉄道関係のラッピングとかいっぱいされてますよね。鉄道の車両やなんかも。

松本 はい、はい。

向谷 松本先生は昔から鉄道が好きだったんですか?

松本 好きも嫌いも、わたしの家の前、そうですね距離にして(客席の)5列目あたり(約5メートル程度)を鹿児島本線が走ってたんです。

向谷 鹿児島本線?

松本 そうです。ですから特急も急行も貨車も何もかもそこに止まって、ぼーぼー、ぼーぼー、汽笛を鳴らす場面があるわけです。だから、これがわたしには子守歌なんです。あとは急ブレーキの音。ですからこどもの時から、わたしの場合は終戦直後ですよ。例えば列車が走るでしょ。その横を「ハーロック、ハーロック」って歩いたんです。だからハーロックという名前は、ごく自然に生まれた、僕のかけ声だったんです(※)。

※松本零士氏は線路脇を歩く際、いつの頃からか「ハーロック」とつぶやくようになっており、その思い出が後のハーロック命名へとつながっていく。

向谷 え、それがあの、「キャプテンハーロック」につながるんですか。

松本 ええそうです。わたしは轟音の中でも平気で寝られるタイプですから。いかなる音の中でも寝られるので有名な男で。一緒に旅行してもわたしだけケロッと寝てるわけです。みんながうらやましがるのと一緒に、「これほど清く正しく美しく寝てる男はいないだろ」と言ったら、「お前はそうかもしれないけど、そのいびきがなあ」と(笑)。

向谷 なるほど(笑)。お若いときからいびきが大きかったんですか?

松本 そうらしいです。わたしはどんな音の中でも平気で寝てしまうんで。

向谷 松本先生が生まれた終戦直後といえば、もちろん電車よりSLが多いわけですよね。

松本 そうです。市電はありましたけどね。わたしは昭和13年、1938年生まれです。ですから戦争の体験もあります。わたしの頭上を飛び越えて。B29の大編隊。そして雷撃機や艦載機ですね。それがわたしの頭上を飛び越えて、呉、広島の方に飛んでいきました。それを要撃する日本の紫電改や四式戦闘機が空中戦もずいぶん見てます。わたし自身が米軍から機銃掃射を浴びた。グラマンの飛行機が「パン、パパン」「パン、パパン」と6回音が聞こえた気がしたんですが、何十発と撃っていたでしょう。そういう時代を生きてきた少年だったわけです。

向谷 そういった経験がなければ、ああいったいろいろな作品ができないんだと思うんですけど、その頃見てたアメリカ軍が日本に勝って進駐してきますよね。占領者になって。

松本 そうです。終戦直後、その時わたしは愛媛県の大洲市に疎開してたんです。母親の実家に。両親とも元々は愛媛県の大洲市出身でした。そしてわたしは久留米で生まれて小倉で育った男です。というのはわたしの一族はみんな小倉市にいた。実はここも原爆の標的になって、第1目標。長崎に行く前に小倉の上空を20分間くらい周回したそうですね。B29が原爆を積んで、ですよ。ところが八幡製鉄の煙と、時雨があったのと、なにしろ気が短いですからね。小倉の人間は。なので高射砲を撃って撃って撃ちまくるは戦闘機隊は上がるわで落ち着かなくなって長崎に行った。それで長崎が犠牲になった。わたしの一族は助かったんですが、うれしいかというとね、切なくて切なくて、喜んでいいやら分からないんですよ。わたしの一族は生き残りました。しかし長崎の人たちのことを考えると胸が痛んでね。何とも言えない気持ちになるんです。今度は米軍の占領のまっただ中で、北九州の小倉で育ったんです。ですから同じ町の出身者で、皆さんご存じの中尾ミエさんや山本リンダさん。わたしの家の近くで育った人なんです。その時すれ違っても気がつきませんけどね(笑)。

向谷 山本リンダさんなんか、派手な印象ですからね。

松本 中尾ミエさんは、わたしがよく漫画の本や教科書、小説や参考資料を買っていた本屋さんの娘さんなんです。

向谷 じゃあ、ものすごく近いですね。

松本 近い。城下町ですから。中尾ミエさんのお宅は“宝文館”。大きな本屋さんで。京町、問屋町、栄町という風に城下町の名前が付いているわけです。小倉城の。明治維新の時に燃えましたけどね。

向谷 なるほど。で、今日ここはですね、「超鉄道ブース」という名前になってまして、集まってる方は多くの鉄道ファン、たくさん集まっているんですけど、松本零士先生と言えばいろんな鉄道のイベントにも参加されるし、銀河鉄道999ももともと古い客車と機関車という組み合わせでできているじゃないですか。鉄道に関して、(作品を)作っていく上で相当こだわられていると思うんですよ。鉄道に関しては。

松本 自然に見てますから。列車とはこういうものだと。上京するときだって蒸気機関車で、片道切符で。帰りの汽車賃を持っていないんです。覚悟を決めて死んでも帰らんということで上京した。小倉駅を午後5時半に出て、夕方です。東京に着いたのは明くる日の午後5時半。

向谷 24時間! 松本先生のデザインの鉄道模型が出るときは、そういうときはチェックされるんですか。

松本 (鉄道模型を)見て、ここがこう違う、ここが大きいとか小さいとか、そういうことは言いますね。我々は列車と一緒に走ったりですね、横を。踏切に立ってて何メートルまで頑張れるかということを。やっちゃダメですよそんなことは。絶対に(笑)。終戦直後のむちゃくちゃな時代ですから。何メートルまでがんばれるかなんて、5メートルくらいで飛び退くんです。そしたら機関士が怒って石炭をぶつけてくる(笑)。こういうこともやってました。それから1円玉を(レールの上に)置いてね、走ると引いていくわけです。

向谷 先生それはちょっとちょっと(笑)

松本 (1円玉が)半分広がっていくんだよね。もうむちゃくちゃです。戦後の大混乱期。それから占領軍の列車はですね、真っ白に塗ってありまして。一番いい列車を占領してるんです。何しろこちらは敗戦側ですから。亡国の民ですよね。あの無念さ。町中を米軍の戦車が走ってるんですよ。市電の軌道上を。トラックが走ってはいけない、と言っているところをM4中戦車がだらだら走っていって。自転車屋さんを見つけて、ピンが外れたから直しなさい、と言う。

向谷 自転車屋さんで? 戦車を?

松本 そしたら自転車屋さんのおじさんが「ここは自転車屋なのでできません」というと「何を言うんですかあなたはプロです。直しなさい」といってピストルを突きつけるわけです。焼け火箸をカンカンに焼いて、ピンにたたき込んで「OK!」。そしたら100円か、1000円か、と言う。そりゃ1000円って言うに決まってますよね。それをわたしはチビの時ににらんで。本当ににらみつけてる。そういう少年だったんです。

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