「自分はゴジラから離れられない運命」 ファンを代表してゴジラに弔辞を読んだ男が語る、“好きでい続けること”の幸せ:オタクの幸せ(2/3 ページ)
ゴジラファンとしての道を切り開いた粕谷さんに“ひとつのことを好きでい続けることの幸せ”についてお話を伺いました。
しかし、入社したその年に会社が入居していたビルで「大ゴジラ展」という催しが開催されたことからゴジラ熱がじわじわと再燃。さらに会社帰りに新宿地下道を猛スピードで駆け抜けていく集団に遭遇し、「何かあったのかもしれない!」と一緒に走ってついて行った際には、階段上に「ゴジラ」と書かれた台本を持つカメラマンの姿が。運命のいたずらで撮影に巻き込まれ、意図せずゴジラ映画へエキストラ出演を果たすことになったこの瞬間、粕谷さんは「やはり自分はゴジラからは離れられないと確信しました」と語ります。
また1989年公開の「ゴジラvsビオランテ」で一般からのストーリー公募が行われた際には、「PUFF」での文通をきっかけに親交を深めた歯学博士の小林晋一郎さんの考案した物語が採用に。祝福の電話をしたところ「たまたま明日撮影所に行くので一緒にどうですか」と誘いがあり、東宝撮影所に同行することになりました。
当時については「全くの部外者なので恐縮しきりでしたが、富山省吾プロデューサーから『君にはファンのオピニオンリーダーとして応援してほしい』といううれしいお言葉をいただくことができました。小林さんと知り合えたことで今の自分があると思っています」と粕谷さん。以降は節度をわきまえた上での撮影所見学も許可され、川北紘一監督やスーツアクターの薩摩剣八郎さんとも親しくなっていったといいます。
また映画が公開される度にチラシ配りやポスター貼りをするなど、地道な宣伝活動は東宝サイドも好意的に受け取っていたようで、粕谷さん夫妻の結婚式にゴジラが登場するという粋な計らいも。粕谷さんは「まだ携帯電話もインターネットもメールも存在しない時代でしたが、礼儀をわきまえて失礼のない範囲で『とにかくゴジラが好き!』と伝え続けた結果、関係者にその熱意が伝わったのかもしれません」と当時を振り返りました。
予想だにしなかったゴジラの死、ファン代表として弔辞を読むことに
今でも多くの人に愛されるゴジラですが、実はこれまでに2度、死んでいることを皆さんは知っているでしょうか。1度目は映画「ゴジラ」(1954年)で、2度目は平成ゴジラシリーズの完結編として制作された「ゴジラvsデストロイア」(1995年)です。ゴジラの死を描いた異色作として公開された「ゴジラvsデストロイア」の宣伝がスタートすると「ゴジラを殺さないで!」と呼びかける声は少なくなく、名古屋では映画のストーリー変更を願う署名活動を行う人も現れました。
そんな中、「既に撮影が始まっている作品のストーリーの変更は難しい」と考えた粕谷さんは、「ゴジラ大復活」と書かれたタスキをかけて、「ゴジラの復活を願う活動」を開始。日比谷の街頭に立つなどしてゴジラ復活を願う人々から集めた署名を、東宝本社で富山省吾プロデューサーや川北監督らに手渡しました。
また「ゴジラvsデストロイア」公開後の1995年12月24日には、激闘の末散ったゴジラの死を悼もうと「ゴジラの告別式」が催されることに。粕谷さんもゴジラ追悼ツアーへの参加を申し込んだところ、早速東宝宣伝部から「復活を願うファン代表として弔辞を読んでほしい」という連絡が入り、告別式では徹夜で書き上げた弔辞を読み上げました。
「大いなる復活のその日まで、今はただ安らかに眠ってくれ」と締めくくられたその弔辞につづられた思いは見事ゴジラの胸にも響き、ハリウッド版映画「GODZILLA」(1998年)の公開後、日本でもミレニアムシリーズ(1999年〜2004年)が製作されました。このシリーズでは制作側と連携してエキストラ集めの協力を行ったという粕谷さんは「映画に自分自身はほとんど写っていませんが、エキストラで出演しているといううれしさよりも、微力ながらもゴジラ映画に協力できているというところに喜びを感じていました」と話したほか、「シン・ゴジラ」(2016年)では、一般の登録エキストラとして様々な役で参加できたと振り返りました。
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