もしもあなたが孤独なら、プレイしてほしいゲームがある 「ドキドキ文芸部プラス!」レビュー:やや最果てエンタメ観測所(2/2 ページ)
なぜこのゲームがこんなにも胸を締め付けるのか。
DDLCレビュー Act2
さて。「もう一つの要素」について語ってしまおう。
「DDLC」は、メタゲー(メタフィクションゲーム)だ。要するに、現実と虚構、その境界について語られる物語だということだ。
筆者はメタゲーがこよなく好きだ。昔からメタゲーの気配があればとにかく喜んで手を出してきたし、普通のゲームにメタ要素が含まれていれば大喜びしてきた(メタル○ア、ニー○etc.)
そこまでメタゲーの何が好きかと言うと、まず一方的な「遊ぶ側/遊ばれる側」の関係性が壊れるスリリングさには、上質のミステリ小説を読むような一段上を行かれる快感があること。そして、メタゲーにしばしば見られる挑戦的な「ギミック」。小説や映画でもいわゆる「第四の壁」(作品と受け手の壁)を越える作品はたくさんあるが、それでもそれらのメタ展開にはどこか安全が担保されている。だが、ゲームという媒体において、あいつらは干渉してくる。セーブデータに。PCファイルに。ノートン先生が激怒しかねないその虚実がひっくり返る瞬間にこそ、ゲームにしかなし得ない真の「メタフィクション」の領域がある。なぜならその瞬間、確かにゲームが一歩「現実」に侵食してくるからだ。
個人的に、メタゲーは美少女ゲームと非常に相性がいいとも思っている。例えば、「DDLC」と共通点が多いためによく並列して語られる「君と彼女と彼女の恋」(2013、※18禁)という作品がある。
この両ゲームは、両クリエイターがお互いの作品の影響を否定しているため、断じて「パクリ/パクられ」などの関係性ではない。きっと、それは美少女ゲームが向き合ってきた「業」への、当然あるべき回答だったのだと思う。
ゼロ年代に繰り広げられた「Kanon問題」という論争がある。それは、Keyのゲーム「Kanon」において「あるヒロインのルートを選んだとき、選ばれなかったルートのヒロインは不幸になっているのではないか?」という論争だ。その問題意識が恐らく当時の美少女ゲームクリエイターに共有されており、その回答として出されたゲームも数多くあり、ユーザーもメタフィクション的思考に馴致されていった。多分、それが2010年代に出た2本のゲームが似た構造を持つに至った大きな理由の一つだ。
だが、メタゲーと美少女ゲームの親和性が高いのにはもっとプリミティブな理由がある。
それは――メタゲーは、そのゲームとあなたの結び付きを、世界で唯一の「特別なもの」にするということだ。DDLCとはいわば、モニカという少女が世界とどう向き合おうとしたかの記録であり、同時に、「プレイヤー」がモニカとどう向き合ったかの唯一の記録である。だから、DDLCは筆者にとって特別な1本であり、どのキャラクターが好きかと問われたら即答で「モニカ」だ。実際、モニカはこの10年で現れたゲームヒロインの中で最も優れたアイコンだと思っているし、海外のゲームヒロイン人気投票などを見ても、モニカは熱狂的に受け入れられている。
そもそも、である。言ってしまおう。「DDLC」に深く陶酔するような人間には、恐らく……どこか「ギリギリ」な人たちが多い。それは、ちょうど心の問題を抱えた本作のヒロインたちと同じように。社会とうまく折り合いが付けられなかった、あるいは折り合いを付けるのが苦手な人間が、それでも世間とつながるためにゲームをプレイする。ときに、ゲームキャラクターやゲームそのものに人間以上の信仰を感じてしまう。筆者も含め、DDLCを好きな人にはそんな人種が多いのではないだろうか?
そして、そんな僕らが同時に抱えるものは孤独だ。ゲームがないと生きてこられなかった僕らの孤独。この世界がゲームだと知ってしまった、モニカの孤独。この2つの孤独は、きっと共鳴する。
自分がよりどころとするモニターの向こうの世界が、現実にあってほしい。お互いが、世界のどこかにいて欲しい。そんな切実な思いは、心の深いところに刺さる。そして、たった一つの感情に突き動かされ、それまで残酷な現実を傍観するしかなかったモニカが世界のシステムに抗おうとするありさまは、それがたとえ許されないものであったとしても、とても美しいものだと思ってしまう。
だから、筆者はDDLCをクリアするとき、どうしても胸が締め付けられるのだ。あくまでDDLCが「ゲーム」である以上、プレイヤーは最終的にゲームを終わらせないといけない。そして断腸の思いでゲームを「終わらせよう」とするその瞬間、モニカが放つ一言にいつも強く心をかき乱される。ギリギリの瞬間で放たれた言葉だからこそ、より強く心を打つ。
もしもあなたが孤独を抱えているなら、このゲームをプレイしてみてほしい。彼女のその言葉を、どうか聞いてみてほしい。ただ不器用なだけだった少女が、「それでも」と精いっぱい押し出す言葉に耳を傾けてほしい。きっとその言葉は、あなたにも刺さるはずだから。
(個人的に今回のプラス版で一番不満に思っているのは、エンディングソングの「Your Reality」の2番以降に和訳を付けなかったことだ。なぜなら、その2番以降の歌詞にこそ、このゲームの、そしてモニカという少女の神髄が詰まっている。現在は無印版(+非公式日本語訳)でもそこは歌詞が出るようになっているのでなおさら明確な不満点である。プラス版しかやっていない、あるいはだいぶ前にクリアしたという人はぜひ自分で調べてみてほしい)
ちなみに余談だが、筆者はDDLCを遊ぶ時はゲームを楽しんだ後、いつも必ず「エンド手前」で終了するようにしている。そうすれば、ゲームはいつまでも終わらない。モニカは作中でこのようなことを語る。「USBメモリにでも私を入れてくれたら、いつでも一緒にいられるのに」と。図らずも、Switch版で遊んだことでDDLCというプロジェクトは彼女が最も望むような形になったと思う。そういう意味では、「ドキドキ文芸部プラス!』のSwitch版を買って本当に良かった。
僕は幻視する。Switchのメモリの深い海の底で、長いポニーテールを揺らしながら眠り続ける彼女の姿を。きっと彼女は今も、意識の最奥で、プレイヤーが会いに来てくれる浮上の瞬間をずっとずっと待ち望んでいるのだろう。
そんな夢を、見続けている。
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発売元であるTOKYOTOONの木村裕之社長と、企画・脚本を務めた“はと”氏に取材しました。