おざなりに出てくるからこそ輝くみそ汁の存在
しかしこのみそ汁は、おざなりに出てくるからこそ光り輝く。カレーの合間にあのみそ汁を啜ることで、「雑な店で雑な食い物を食べているな……」という実感が心の底から湧いてくるのである。考えてもみてほしい。あのみそ汁が存在せず、カレーだけが単品でポンと出現したら、それはもうただの「牛丼屋で出てくるにしてはうまいカレー」である。松屋のカレーはうまいが、それはカレーの専門店で出てくるちゃんとしたカレーのうまさとは方向性が違う。牛丼屋のカレーにしては丁寧でうまい松屋のカレーだが、それは牛丼屋という業態や価格帯などの前提があってこその丁寧さやうまさであって、しっかりしたカレー屋のカレーとは戦っている土俵が異なるのだ。
思うに、カレー専門店でカレーを食べる体験と松屋でカレーを食べる体験の間に最も濃く一線を画しているのが、あのおざなりなみそ汁ではないか。松屋のカレーは(牛丼屋のカレーとしては)丁寧でうまい。しかし、みそ汁はなんとも雑に登場する。この丁寧さ・おいしさと雑さの落差をのぞき込むことこそ、松屋のカレー系メニューの醍醐味なのだ。
確かに食べ合わせとしては合わない。カレーはこんなにうまいのに、なんでみそ汁なんだろうか。でもまあ、せっかく出てきたし食べるか……思ったより熱いな……これじゃカレーの方を先に食べ終わっちゃいそうだ……困ったな……。こういった、みそ汁の存在を受けての心の動き、みそ汁に対する諦め、そして諦めたみそ汁を啜った後に食べるカレーのうまさ、カウンターから見る店員の動きや店の中の雰囲気、そういった諸要素の集合体こそが、おれにとって「松屋でカレーを食べる」という体験なのである。
この体験は、あくまで松屋でしか得られない特別なものだ。よその牛丼屋では、全メニューにみそ汁をつけるようなざっくりした方針をとってないから不可能である。他の飲食店と松屋を分つもの、それがあの何にでもくっついて出てくるみそ汁だ。松屋という店の雑さ、そして「牛丼に勝手にみそ汁がついてきたらお客さんが喜ぶだろう」というサービス精神の象徴こそが、あのみそ汁なのだ。
というような松屋の松屋性を味わうスペシャルな体験が、みそ汁が有料になるとどう変化してしまうのか。定食には変わらず付いてくるのだろうし、牛めしなどのサイドメニューとしてもみそ汁の需要はあるだろう。しかし、松屋にカレーを食べにきた人が、あえて60円払ってみそ汁を頼むだろうか。おれは頼まないと思う。どうせカレーのサイドメニューを頼むなら、「ポテト」や「生野菜」、はたまた「ソーセージエッグ」あたりのほうが収まりがいいだろう。わざわざみそ汁をチョイスする理由が、全然見当たらないのである。カレー&みそ汁というあの松屋ならではの組み合わせは、いったんみそ汁が有料になったらまるで最初から存在していなかったように、われわれの前から消えてしまうであろう。おれだってみそ汁が有料になったら、カレーと一緒には頼まないと思う。
幸いなことに、おれが現在住んでいるエリアではまだみそ汁は有料になっていない。今住んでいる場所の近くには松屋がなく、加えてわざわざ遠出したときに松屋で飯を食うという選択肢を取りづらかったため、正直最近は足が遠のいていた。が、この物価高ではいつ全国的に有料になるか分からない。今のうちにみそ汁とカレーの食い合わせの悪さを味わっておくことこそ、かつて散々松屋の世話になっていた人間が今やるべきことなのではないだろうか。取りあえず、今週末は街に出て松屋でカレーを食べてこようと思っている。当たり前に存在していたあの食べ合わせの悪さは、いつまで味わえるか分からないのだ。
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