栃木唯一! 駅弁マーク入りの駅弁屋さん「松廼家」の歴史とは?:宇都宮「とちぎの彩り 玄氣いなり」(1000円)(1/3 ページ)
鉄道開業150年。「駅弁」はじまりの駅は諸説ありますが、宇都宮駅発祥説も広く知られます。宇都宮ではいま、どのような駅弁が売られているのでしょう。
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介。
【ライター望月の駅弁膝栗毛】:横浜「鉄道開業150年記念弁当」
新橋〜横浜間に鉄道が開業して150年(関連記事)。日本で初めて鉄道駅の構内で売られたものは、「新聞」だったと言われています。手掛けたのは、イギリス人のジョン・レディー・ブラック。一方、「駅弁」については、いまもなお諸説あります。上野、熊谷、小山、大阪、神戸……。そのなかで最も広く知られているのが、日本鉄道(現・東北本線)宇都宮駅を発祥とする説です。宇都宮ではいま、どのような駅弁が売られているのでしょうか。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第37弾・松廼家編(第2回/全6回)
私鉄の日本鉄道によって敷かれた東北本線。最初は利根川に橋を架けることができず、上野〜宇都宮間が開業した際、乗客は渡し舟で利根川を渡っていたと言います。やがて東北本線が青森まで開業すると、上野から北を目指す汽車が、数多く運行されました。そんな機関車が客車を引っ張る列車の名残りを感じるのが、いまも運行される団体列車「カシオペア紀行」。寝台特急「カシオペア」として活躍した車両は、いまも現役です。
東北本線・宇都宮駅の開業と同時に生まれたと云われる日本の駅弁。いま、宇都宮駅の駅弁屋さんとして孤軍奮闘するのが、明治26(1893)年創業の「株式会社松廼家」です。駅弁膝栗毛恒例「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第37弾は、就任から25年目に入った、松廼家のトップ、齋藤久美子代表取締役にお話を伺っていきます。
雑貨・土産物の店から始まった!? 松廼家
―齋藤家のルーツを教えていただけますか?
齋藤:初代は、山形の出身と聞いています。もともと、山形で学校の校長先生をやっていたそうですが、明治の早い段階で、宇都宮の駅前となる辺りに移り住んできていたようです。かつて、宇都宮の駅弁を手掛けていた白木屋さん(注)も「斎藤家」ですが、たまたま同じ名字だったようです。
(注)白木屋
明治18(1885)年7月16日、日本鉄道(当時)宇都宮駅開業と同時にごま塩の付いた梅干入りにぎり飯2個とたくあん2切を竹の皮に包み、5銭で販売したとされる旅館。“日本最初の駅弁”とも云われる。白木屋の斎藤家は江戸時代から宇都宮の伝馬町で旅籠を営んでいた旧家。明治20(1887)年頃、宇都宮駅前に白木屋支店を設けたという。(参考)「宇都宮駅100年史」「写真集 明治大正昭和 宇都宮」
―「松廼家」は、明治26(1893)年創業ですが、鉄道構内営業に参入した経緯を教えてください。
齋藤:鉄道の草創期から、宇都宮駅に近いこともあり、駅構内の売店として参入したようです。その後、売店事業が鉄道弘済会(のちのキヨスク)に譲渡されることになりました。そこで“日本初の駅弁”を始めた白木屋さんや、最初はパンを販売していたと聞いている富貴堂さんに続く形で、弊社が駅弁に携わるようになったと聞いています。創業した明治26(1893)年は、売店としての創業か、駅弁店としての創業かは、よく分かっていません。
松廼家最初の駅弁は「寿司」?
―「松廼家」という屋号の由来は、伝え聞いていますか?
齋藤:宇都宮駅周辺は、昭和20(1945)年に空襲に遭って、ありとあらゆるものが焼けてしまいました。店の昔の写真や史料なども何も残っておりません。戦地に赴いた人たちが、戦後、戦地から戻って宇都宮駅に降り立つと、駅の周辺には何もなくて、二荒山がよく見えたと話されたと言います。私自身も主人や義母から聞いた話が中心ですので、どうしてこの名前になったのか分からないというのが、正直なところです。
―「松廼家」最初の駅弁は、どんな駅弁だったか伝え聞いていますか?
齋藤:最初の駅弁は、幕の内ではなく、お寿司やサンドイッチを売っていたらしいと聞いています。当時は牛乳やアイスクリームも販売していました。私が斎藤家に入ったころは祖母が健在で、日持ちがする弁当の製造を求められると、「寿司だよ、寿司!」と話していたのを思い出します。そういった技術が後年、「茶きんずし」(注)などの駅弁として実を結ぶことになったのかもしれません。
(注)「茶きんずし」……松廼家が昭和のころに販売していた駅弁。かんぴょうを刻み、椎茸とゴマを混ぜた酢飯を、薄く伸ばした玉子焼きで包み、かんぴょうで結んでいたという。
駅弁を通して育まれた“公共に奉仕する”心
―宇都宮には、陸軍第14師団が置かれ、“軍都”とも云われていました。軍弁の需要は大きかったでしょうね?
齋藤:大きかったと思います。3社で賄ったほどですから。松廼家でも「軍弁」を作っていたとは思いますが、記録がないのでどんなものを作ったかは分かりません。でも、「軍弁」がなかったら、ここまで生き残ってくることはできなかったと思います。このときに培われた、公共に“奉仕する心”は、戦後の松廼家にも息づいていて、災害など、「何か事があれば全力で取り組みなさい」と云われ続けてきました。
―東北本線は、雪などの影響を受けやすい路線でしたから大変ですね。
齋藤:国鉄時代の構内営業者は、何か起きたときにすぐ駅へ駆け付けられるように、何人かは、駅の近くに住んでいる人を雇う決まりがあったほどです。この10年ほどの間でも、宇都宮地区で雪害があった際、夜を徹して作業される鉄道の皆さんのために積極的に差し入れしています。いまは昔ほど駅が第一という感覚は薄くなっていますが、災害のときなどに、自分たちでなければできないことがあるという自負は持っています。
松廼家としての最初の駅弁は「寿司」だったかも……ということで、選んでみたのは、今年(2022年)から大きくリニューアルされて販売中の「とちぎの彩り 玄氣いなり」(1000円)。黄色い掛け紙には、まるで東北本線(宇都宮線)の車両のように、オレンジ色と緑の帯が入っていて、お品書きがイラストで描かれています。“とちぎの彩り”というワンフレーズが付いたこともあって、掛け紙も中身も、ちょっぴり彩り豊かな雰囲気となりました。
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