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能楽を大成させたことで知られる能楽師・世阿弥(ぜあみ)の少年時代を描く、TVアニメ『ワールド イズ ダンシング』。原作は漫画家・三原和人氏により『モーニング』にて連載された人気漫画で、今期夏アニメとして放送が始まると、その躍動感あるアニメーションや、心震えるエピソードから現在注目を集めています。

作中には、鬼夜叉(おにやしゃ)こと少年時代の世阿弥を中心に、観世座(かんぜざ)の座頭である父・観阿弥(かんあみ)や、室町幕府将軍・足利義満など、歴史上の人物が多数登場。動乱の南北朝時代に、舞を作り上げていく鬼夜叉と、その周りの人々の半生を描いた、ダンシングストーリーとなっています。
今回は、そんな絶賛放送中のアニメ『ワールド イズ ダンシング』を考察します。ジブリ作品との共通点や、本作の重要なテーマにも触れますので、ぜひご覧ください。
『ワールド イズ ダンシング』を考察:舞を踊ると異界が現れる。『かぐや姫の物語』とも通ずる脱構築的なアニメーション表現
身体性を呼び覚ましたい……。4話まで見終えた段階で私が感じたのは、身体性への強いこだわりです。躍動感という表現がこれほどまで、しっくりくる作品も少ないだろうと思うほど、第1話から生き生きと描かれたダンスシーンの表現が、脳裏にこびりついています。特に印象深かったのは、言わずもがな、白拍子(しらびょうし)の狂気的な踊りです。
鬼夜叉が偶然見かけた、病弱な白拍子の女が披露する舞……。幼少期から舞を疎んできた鬼夜叉が、初めて「よい」と感じた瞬間だったわけですが、視聴者もまた圧倒されたことでしょう。スケッチや水彩画の手書きの雰囲気、ラフな線を活かして、絵画をそのまま動かしたような独特な表現に、目を奪われた人は少なくないはずです。

これを見て真っ先に思い浮かんだのは、スタジオジブリの高畑勲監督が手掛けた遺作『かぐや姫の物語』です。通常のくっきりした線を使うアニメーションではなく、絵巻物をそのまま動かしたような表現が採用されています。ラフな線をそのまま動かすことで、絵に躍動感が生まれ、桜の木の下で踊る場面や野原を駆け抜ける様は、非常に荒々しく野性的です。
『ワールド イズ ダンシング』にて、絶望の中で踊る白拍子の、叫びを込めたような踊りはまさしく『かぐや姫の物語』で表現されていた、荒々しさを彷彿とさせるところがあります。ダンスシーンでは、背景も簡略化されていますが、余白が多い表現により、かえって現実世界ではない異界に連れていかれたような感覚も覚えます。
世阿弥の父・観阿弥の舞に対し、周囲の人物が「世界が変わる」と表現していましたが、それは背景が白く飛んでいく白拍子の舞でも、まさに起こっていたというわけです。良い舞の条件は、異界に連れていかれるような体験があるかどうか、なのかもしれません。
『かぐや姫の物語』は全編同じようにラフを活かした絵柄(ゆえに制作期間が8年もかかった異常な作品)ですが、『ワールド イズ ダンシング』は主に舞のシーンの時だけ使われている表現で、通常時はくっきりした一般的なアニメーションに落ち着いています。
しかし、だからこそ、普段の様子と身体が解放され、異界が現れるダンスシーンとの違いが明瞭に把握できるのだと思われます。通常時はきれいな絵、ダンスシーンは野性がほとばしるような、荒々しい絵として描かれ、この落差によって、ある種のトランス状態に入った舞の迫力が伝わってくるのでしょう。
『ワールド イズ ダンシング』を考察:作画クオリティの先へ。『ミルキー☆サブウェイ』や『ひゃくえむ。』などアニメ表現は変革期に入ったのか?
『鬼滅の刃』以降、アニメーションの社会的地位が向上したのに伴い、作画に求められるクオリティも上がり、テレビアニメであっても劇場版のような仕上がりの作品も増えてきたように思います。そして絵の滑らかさ、美しさも、一定の限界値に達し始めている印象も受けます。さらに言えば、AIの登場もあり、完成度の高い絵を生成すること自体は、素人でも(あくまで真似事のレベルですが)、可能になりつつある状況です。

ゆえに絵の完成度だけではなく、よりクリエイティブなもの、表現主義的なものを求める空気感も醸成されており、一部のヒット作品は、そうした観客の要求に応え始めています。レトロポップな3DCG表現の『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』や、洗練されたロトスコープ技法で描かれる『ひゃくえむ。』、原作の絵のタッチをそのまま生かす『ルックバック』など、実験的ないし挑戦的な演出を試みる作品が台頭し始めています。
高畑監督作品もそうですが、これらの作品には“アニメとはこういうもの”という固定概念を壊して再構築する、いわゆる“脱構築的な構え”が見られます。そして『ワールド イズ ダンシング』も、その点では同じグループにいるのではないでしょうか。きれいな絵で動かせばいいではなく、あえて粗くする、崩すという演出的な挑戦をしているわけですから。

このように『ワールド イズ ダンシング』は、絵の洗練さの先を目指す“脱構築アニメ”の息吹を感じさせる作品ですが、その意味では白拍子の舞に、コンテンポラリーダンスを取り入れている点も、ドンピシャだと私は感じました。コンテンポラリーダンスは、これまでのダンスの常識を外し、型にとらわれずに思想や感情を自由に表現するという現代舞踊です。
コンテンポラリーダンスの構えも、型にとらわれないという意味では、脱構築的と言えます。絵を崩し、ダンスの型を崩す、双方からの脱構築的アプローチによって、鬼夜叉が期せずして「よい」と口にしてしまうような、驚きに満ちた舞のシーンに仕上がったのかなと想像します。
『ワールド イズ ダンシング』を考察:舞の“一回性”をアニメで表現できるのか? ライブ感を生むための工夫に膝を打つ
本作で面白いのは、白拍子の舞が1回目と2回目で異なるという点です。全体的な動きは似ていますが、細かな動作が違うのと、赤く染まった花を持っているかどうか、それから最後の盛り上がりで、羽織を脱ぐかどうかも異なる点です。
舞をはじめ、演劇や音楽ライブなど、現場で表現されるものは、たとえ同じ演目であっても、その時限りの表現というものがあります。舞台表現の良さは、その日その場所でしか見られない一回性、唯一性にあると言って差し支えないでしょう。
一方で、アニメをはじめ映像作品は再生すれば、何度でも全く同じ表現を見ることができます。いつどんな場所でも、再生する端末さえあれば、完璧に再現できるのです。その時しか立ち現れない1回限りの舞、その現場感を何度でも再生できるアニメでどう成立させるか、本質的に難しい問題かと思われます。
この一回性と再現性の矛盾に対して、本作では同じ人物の同じ舞でも、1回目と2回目では異なる舞い方をするという表現手法を用いることで、一度限りのきらめき、ライブ感を作り出して、応えているように感じました。こうした細かな表現の積み重ねが、視聴者を現場へ巻き込み、舞台観劇と同じく空間を共有するような、体験的なアニメ視聴を成立させているのかもしれません。
また、お行儀のよいお坊ちゃまである鬼夜叉が、最後に羽織を脱ぎ、乱舞する様子もライブ感があり、身体性に呼びかけて来るものがありました。その際、鬼夜叉が羽織を脱いだのは、白拍子が2回目に行った舞で、羽織を脱いだことに、意識か無意識か分かりませんが、影響を受けてのことでしょう。
それまできれいに、行儀よく生きていたお坊ちゃまが、野蛮な世界に触れ、身体性に目覚め、野性を解放していく様を見ているうちに、アニメの中へ引き込まれ、たぎるような感覚を覚えたという人も決して少なくないはずです。
『ワールド イズ ダンシング』を考察:みんな本当は暴れたい。野性の解放区として機能する過激なアニメたち
2020年前後から、こうした野性へ訴えかけるアニメが、メインストリームに上がってきている印象があります。『鬼滅の刃』をはじめ、『ブルーロック』や『ダンダダン』、『チェンソーマン』など、やや過激な表現も交えながら、人が持つ野性の力を呼び覚ますような描写が散見され、それらが観客の心を掴んでいることは間違いないでしょう。

『ダンダダン』ではゴールデンボールのくだりを含め、海外ならコンプラ的に問題になりそうな描写も少なくありませんし、それは『チェンソーマン』にも言えること。『ワールド イズ ダンシング』でも、五穀豊穣と子孫繫栄を願う「田遊び」という風習が描かれており、そこでは男女のまぐわいが、間接的であれ、表現されています。

今の時代、あらゆることがコンプラで厳しく見られ、学校でも職場でも強い倫理観を求められ、SNS上での相互監視と、失敗したら炎上して一発アウトという、息が詰まるような社会で生きている。そんな感覚を持つ若者も少なくないでしょう。それに加え、コロナショックによる外出自粛を経験して、さらに息苦しさが強まったところもあると思われます。
野性を抑え込まれる環境に置かれた2020年以降において『ワールド イズ ダンシング』をはじめ、これらの野性味のある作品は、魂の解放区として機能しているのだと推測されます。本当は暴れたいし、もっと遊びたい、でもそれが許されない。鬱屈と抱え込んだ衝動性や、野性的であることの憧れに、応えているのかもしれません。

特に『ワールド イズ ダンシング』の場合は、お坊ちゃまが身体性や野性を獲得していくので、家に引きこもらざるを得なかった観客からすると、ライドしやすく解放感を共有しやすいという面もありそうです。
今後も“野性解放系アニメ”は増えてくると推測しますが、どうか解放区としてのアニメに、コンプラ等による強い規制が入らないことを願います。そんなことをすれば、文化的に窒息することは目に見えていると思いますけれども、果たして私の考え過ぎでしょうか。