INDEX
- 『天幕のジャードゥーガル』を考察:“知”が世界を切り開く。『チ。』とオーバーラップする知性の価値と歴史漫画の矜持
- 『天幕のジャードゥーガル』を考察:知恵というバフで成り上がる。後宮ものらしい下剋上ストーリー
- 『天幕のジャードゥーガル』を考察:状況に従うか、抗うか……。“信念”を試される中で生まれた不気味な笑い
- 『天幕のジャードゥーガル』を考察:“暮らし”はエンターテインメントだ。『この世界の片隅に』にも通ずる愉快で豊かな生活描写
- 『天幕のジャードゥーガル』を考察:生活が性格を変える。暮らしとエピソードを絡めていく、地に足の付いたストーリーテリング
- 『天幕のジャードゥーガル』の原作をチェック!
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時は13世紀、モンゴル帝国が支配する時代。帝国の捕虜となった少女シタラが、その知性を武器に、帝国を翻弄していく後宮復讐譚『天幕のジャードゥーガル』。原作は漫画家・トマトスープ氏により、秋田書店「Souffle(スーフル)」にて連載の歴史漫画です。

宝島社「このマンガがすごい!2023」オンナ編で第1位を獲得するなど、高い評価を受けている大人気作品で、2026年7月よりアニメ放送がスタート。スタッフには『けいおん!』や『きみの色』などで知られる山田尚子総監督、サイエンスSARUにてフラッシュアニメーションや原画などで活躍中のアベル・ゴンゴラ監督など、豪華な面々を迎えており、原作の良さを最大限引き出すアニメーションが展開されています。
13世紀のイラン東部やモンゴル帝国など、一般的にはあまり描かれることのない舞台を、極めて精度高く表現しており、今まで見たことが無いタイプの作品として、現在話題を呼んでいます。今回はそんな『天幕のジャードゥーガル』を考察します。
『天幕のジャードゥーガル』を考察:“知”が世界を切り開く。『チ。』とオーバーラップする知性の価値と歴史漫画の矜持
『天幕のジャードゥーガル』の第1幕を見て、漫画家・魚豊氏の『チ。―地球の運動について―』を思い出した人も多いのではないでしょうか。私もその1人です。主人公シタラは、イラン東部の都市トゥースにて学者一家に拾われますが、その家のムハンマドという学者志望の少年に強く影響を受けます。
シタラが初めて会った時、ムハンマドがその手に持っていたのは、金属製の天体観測装置「アストロラーベ」。まさに『チ。』の主人公ラファウが使用していたものと同じです。使っている道具に始まり、知性へのこだわりや「真理」の探究に命を燃やしている点も、両者には近しいものを感じます。

作品として影響を受けているかどうかは分かりませんが、同じ歴史漫画としての矜持という点では通底しているように思います。例えば、知を得ることで“世界の見方が変容する”というメッセージは両作から読み取れることでしょう。
『チ。』で分かりやすいのは、全てに絶望し空を見上げることができなかったオクジーが、地動説と出会い、空を見上げ、同時に世界に期待するようにもなりました。その姿を見た、修道士・バデーニの放つ「それが何かを知るということだ」というセリフが、まさに知の価値を表現していると思います。

本作『天幕のジャードゥーガル』でも、序盤、ムハンマドが屋上から桶を落とす場面で、大事なことが語られていたかと思います。屋上に一緒にいたシタラたちは、桶が落ちる前に耳を塞ぎ、一方で地上にいた者は突然の衝撃音に慌てふためきます。
シタラは桶が落ちることを“知っていた”ので、衝撃音に驚くことはなく、逆に地上のみんなは桶が落ちてくることを“知らない”からパニックに陥ってしまう……。桶の落下を”知っているか否か”で、世界の見え方が変わるのだと、ムハンマドは実験を通して教えてくれています。知ることで、世界がクリアになり、どんな状況でも冷静に把握し、対処できるはずだと。こうした知性に対するスタンスは、やはり『チ。』と通ずるものがあるのではないでしょうか。

ムハンマドの教えにより、知の態度をインストールしたシタラは、捕虜になり復讐を誓ってからも、まずは敵を知ろうとモンゴル帝国の人々の生活様式や風習を観察し、日時計の仕組みも解明します。その後も、教養のおかげで、宿敵トルイの正妃ソルコクタニの指南役として近づくことに成功するなど、知恵者というバックボーンが彼女を後押ししてくれるのです。
『天幕のジャードゥーガル』を考察:知恵というバフで成り上がる。後宮ものらしい下剋上ストーリー

ほかの奴隷とは違い、シタラだけ知というバフをかけられている状態なわけですが、この点は同じ後宮ものの『薬屋のひとりごと』を想起させるところです。主人公の猫猫(まおまお)は薬師であり、圧倒的な知識人として描かれ、身分を超えて貴族から頼られることになります。
知識によって、身分の低い者が下剋上的に上り詰めていくという点も、シタラと猫猫は近しいところがあり、この辺りは後宮もののお約束なのかもしれません。基本的に下から上に向かっていく方が、カタルシスは得られますからね。

また日本人の潜在的な感覚として、福沢諭吉の『学問のすすめ』の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」が根底にあるのかもしれません。学ぶことにより、身分を超えて活躍できるという意識が、こうした知による下剋上的なストーリー構造を受け入れやすくしている可能性もありそうです。
『天幕のジャードゥーガル』を考察:状況に従うか、抗うか……。“信念”を試される中で生まれた不気味な笑い

『チ。』と重なる要素として、もう一つ重要なのが、“信念”を試されるという点です。『チ。』の場合は、地動説を証明するのか、それとも教会に従って諦めるのか、常に選択を迫られますが、彼らは命を懸けて信念を貫きます。
『天幕のジャードゥーガル』でも主人公シタラは、大好きだった心優しい奥方・ファーティマを殺され、復讐心に燃えていますが、モンゴルでの生活に慣れてくると、いつの間にかほだされている自分に気づきます。復讐を忘れてはいけない、しかし同時に順応していく奴隷たちの姿を見ながら、忘れた方が楽になれるんじゃないか……と葛藤が生まれてきます。

地動説と同じく、シタラもまた信念を試されているわけですね。状況に従うか、抗うか……。通常なら、自分の幸せを選び、信念を放棄してしまいそうですが、『チ。』と同じく、『天幕のジャードゥーガル』でも知性のある者は、信念を貫こうとするのではないかと推測します。その先に明るい未来と絶望のどちらがあるかは分かりませんが、一視聴者として足掻き続ける力強さ、知の底力を期待してしまうところです。

ちなみに、第3幕、シラに声を掛けられて、シタラが復讐という信念を固めるシーンを覚えているでしょうか? 人が決意を固める瞬間をここまで分かりやすく、同時に複雑に表現できるものかと、個人的に驚愕した場面です。
教養を武器にモンゴル帝国で俺と出世しようと、提案するシラ。それに対し、どうすればいいのか……悩んでいるシタラの脳裏に、ムハンマドの言葉が浮かび、彼女はハッとします。この時点でシタラは復讐を決めたのだと思いますが、同時に復讐心を悟られないよう、奴隷商人から叩き込まれた愛想笑いを浮かべます。

燃える復讐心と愛想笑いが同居して、笑っているが笑っていない、目の奥がたぎっているような、アンビバレントな表情になっていたかと思います。なんて繊細な表現なのだろうと、切なく思うと同時に、鬼気迫る表情に鳥肌が立ちました。
シタラがツラいのは、この虚構としての笑顔と、本心としての復讐心の均衡を保ち続けなければならないことです。笑顔の側に崩れれば、モンゴル帝国での幸せで復讐心が解けてしまうかもしれず、復讐心に飲まれれば処罰されてしまうだけ……。笑いながら緊張し続けるという矛盾した状態をキープし続ける必要があるわけで、彼女がこれから歩む、道の険しさを予告するような、意味の凝縮されたカットだったと思われます。
『天幕のジャードゥーガル』を考察:“暮らし”はエンターテインメントだ。『この世界の片隅に』にも通ずる愉快で豊かな生活描写

『天幕のジャードゥーガル』の凄さは、“暮らし”の描き込みにあると思います。暮らし自体が一つのドラマであると思わされるほどの凄まじい作り込みで、細部への強いこだわりを感じさせます。
小道具や背景美術のリアリティも含め、きっと何度見返しても発見があるでしょう。都市トゥースの街並み、巨大なモスク、賑やかなバザール、マハティールの豪邸、どこを見ても美しく、異国情緒を味わえるのが本作のほかにはない大きな魅力です。

もちろんモンゴル帝国のゲルや衣装、部族長たちによる最高意思決定会議クリルタイ、音楽舞踊、モンゴル相撲など、シタラが捕虜になってからの世界もまた緻密に描き込まれています。片方の文化を美化し、もう片方を落とすわけではなく、いずれの文化にも敬意を払っていることが画面からひしひしと伝わってきます。
特に第2幕の回想で描かれる、水を汲んだり、食糧を買ったり、うすを引いたりしながら、奴隷同士、または主人のマハティールと姦しく話している様子は、生活描写として非常に印象的でした。幸せな光景ゆえに、その後の展開を考えると、胸が苦しくなります。

このように本作の特徴は、文化だけを取り出して、ことさらに解説するのではなく、文化は生活の中に溶け込んでおり、日常の営みを通して自然と垣間見えるように描かれているところ。日々の暮らし自体をエンターテインメントとして楽しめるよう設計されているのです。

ここで私がふと思い浮かんだのは『この世界の片隅に』のすずさんの姿。たとえ戦時中であっても、鼻歌を歌いながら料理や暮らしなど、日々の楽しみを見出して、生きていた人たちがいる。そんな暮らしのリアリティを丹念に描いた作品だと思いますが、この素朴さの中のエンターテインメントは『天幕のジャードゥーガル』にも見られる要素かなと思います。

日常を愉快に表現するという点は、まさしく女子高生たちの賑やかな毎日を描く『けいおん!』や、個性豊かな商店街の人々との交流を描く『たまこまーけっと』などで、山田尚子監督が発揮してきた得意技であり、真骨頂といったところかもしれません。
『天幕のジャードゥーガル』を考察:生活が性格を変える。暮らしとエピソードを絡めていく、地に足の付いたストーリーテリング

『天幕のジャードゥーガル』は暮らしの描写が、エピソードに深く絡んでくる点も特徴です。例えば、第4幕、羊を世話しながら(糞を引っ掛けられながら)、いつの間にか動物に慣れ、モンゴルの寒さに慣れ、元いたイスラムの風習とは違う血抜きをしない黒い肉にも慣れていく……。
そして第5幕では、同じ街出身の奴隷がモンゴルの地で家族を作り、子供もいて幸せに暮らし始めていると知り、シタラは今の状況を悪くないと思い始めます。しかし、そこで自分の復讐心が薄れていることに気づき、ハッとします。

シタラの復讐心という信念が揺らいでいく過程を、モンゴルでの生活様式に慣れていく様を通して表現しているのです。人間の意思は儚く、“住めば都”でほだされてしまう。新たな生活にゆっくりと認識が侵食されていく様子を、暮らしの描写を積み重ねることで、繊細に表しています。
生活様式や文化がゆっくりと人の性格を変えていく、生活面という足元から迫って来るような、独特なリアリティがそこに展開されています。

先ほど触れた『チ。』の場合は、信念を揺るがす明確な敵が現れますが、本作では“生活に慣れる”という一見気づきにくい敵が現れ、信念を揺るがしてきます。敵のバリエーションは星の数ほどあれど、暮らしの習慣や環境も敵になり得るのだと、気づかされる表現でした。
それから仇である第四皇子トルイに取り入るシーン。トルイに謁見する際、モンゴル帝国の風習が紹介されていたかと思います。この点もエピソードに文化を絡めた巧みな表現でした。魔よけのために「火と火の間を通らなければならない」という儀礼に従いながらも、シタラは帰り際、火を見上げながら「こんな火で焼き消されるものか」と心の中でつぶやきます。

ファーティマや家族との思い出を消されてたまるかという想いはもちろん、自分の中の復讐心という魔の心は簡単に消えないぞと宣言する場面でもありました。魔よけの文化を通じて、シタラの燃え盛るような復讐心を浮かび上がらせる、まさに文化とエピソードが絡み合った、深い描写だったように思います。
記事執筆時点では第5幕まで放送されていますが、シタラと同じく、モンゴルへ複雑な感情を持つドレゲネとの出会いが描かれるなど、ここから本格的な復讐劇がスタートする模様です。知と暮らしの側面から、いかにして大願を成就させるのか、今後の展開が楽しみです。
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