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こんな作品があり得たのか……。映画を見終わってから、しばらく私は席を離れることができませんでした。映画レーベル「NOTHING NEW」初の長編アニメーションにして、新進気鋭の天才・門脇康平氏の初監督作品『我々は宇宙人』。
内気な少年・翼と、クラスの人気者・暁太郎(ぎょうたろう)の2人の30年に及ぶ半生を丹念に描き出した本作は、カンヌ国際映画祭の監督週間に正式出品され、世界に衝撃を与えました。さらに第50回オタワ国際アニメーション映画祭・長編アニメーション部門でグランプリを受賞するなど、いま世界的に注目を集めている1本です。

青春の苦々しさをここまで克明に描き、見ている側を巻き込む作品が、これまであっただろうかと、首を傾げたくなるほどの傑作。いや、傑作や快作などの言葉がやや陳腐に思えてしまう、凄まじいクオリティです。
命がけで制作したことが伝わってくる仕上がりで、監督を含め制作陣の方々には、心からリスペクトを送りたいと思います。そのうえで、今回は『我々は宇宙人』について私なりに感じたことを書いてみようと思います。
アニメ映画『我々は宇宙人』を考察:鑑賞というより経験に近い。映像美と小道具と、あの日の感覚が観客を逃がさない
赤い月、高速道路を走るタクシー、運転手の目に映る光の束、フロントガラスを流れ落ちる滴……。冒頭から、口があんぐりと開いてしまいました。あまりの映像美と洗練された演出に吸い込まれるように、見入ってしまったのです。
運転手の視点から入ることによる主観の共有で、いつの間にかグッと作品世界に没入させられ、小学生時代で描かれる情景もまた、思い出の風景としての美しさがあったかと思います。写実的だけれども、どこか絵画的な景色が目の前に広がり、誰かの淡い思い出の中に迷い込んでいるような、ノスタルジックな感覚に襲われます。

舞台設定が平成ということもあって、平成キッズの私としては、思い出をほじくり返される気持ち良さと悪さの両方を感じることとなりました。私もチャレンジ1年生に付属するコラショの目覚まし時計は持っていましたし、ポケモンシールも集めていました。さらに学校での給食や歯磨き、係、プールの時間なども、リアリティを持って表現されており、もう一度経験し直しているかのような実感が押し寄せてきます。
あらゆるノスタルジックな要素が詰め合されているので、観客それぞれで引っかかるポイントは変わるでしょうが、私が思わず歯ぎしりしてしまったのが、暁太郎がプールに潜るシーンです。プールの底にボールのようなものが転がっていて、おそらくボール拾いのゲームか何かをしていると思うのですが、私もまったく同じことをした記憶があります。

プールに潜った瞬間、景色が一変する感覚もリアルで、別世界がそこに誕生するというか、ある種の秘密基地が生まれる感覚と言えばいいでしょうか。プールだけではありませんが、子供の頃は異界がすぐ隣にあって、現実と異界は地続きだったかと思います。
そういう意味で、プールの水面の上下は、ちょうど現実と異界の境界線になっていて、異界がまだ身近にあった当時の感覚と、異界を覗き込む時のドキドキ感が強烈によみがえってきました。

水面から顔を出した瞬間、ぱあっと音が一気にクリアになるところも忠実に再現されており、プールの時間のあの感覚がしっかり思い出されました。本作では、こうしたあの頃の記憶と五感を呼び起こすような仕掛けが連続するので、鑑賞というよりもあの頃を経験し直しているかのような、不思議な臨場感を覚えるのです。
アニメ映画『我々は宇宙人』を考察:赤い月は照れてるのか、怒ってるのか。事実ではなく解釈の中で僕らは生きている

映画の冒頭、子供のセリフで「赤い月は照れてるのか、怒ってるのか」というクイズが出されていました。非常に印象的な言葉でしたが、子供から大人へ、本作のテーマが出題されているのだなと、私は捉えました。素直に考えれば、同じ月を見ても、異なった解釈をしてしまうのが人間であるということなのでしょう。
月が怒っているようにも、照れているようにも見えるように、翼と暁太郎のやり取りからは、事実は1つだけれども、互いの解釈が異なることで、関係がこじれていく様が見て取れます。ポケモンシールの件や、暁太郎が他人より長く歯磨きをしていることなどを曲解していく辺りも、事実が事実として処理されず、解釈によって空転しています。

翼の傘を壊したという事実は1つでも、仲直りしようとする暁太郎と、親との関係でストレスフルかつ暁太郎への悪評が重なっている翼の間には、埋めがたい解釈の溝が存在していました。このように、本作にはある事象を基点に、異なる解釈が走り、関係がひずむ様子が描かれています。
また本作は、大枠として翼パートと暁太郎パートの2つの視点で展開されますが、赤い月は照れてるのか、怒ってるのかという冒頭の問いは、まさに2つの視点で物語が紡がれることを宣言していたと受け取ることもできそうです。同じ出来事(同じ月)を、2つの異なる解釈により描き出す、そういう解釈の違いがもたらす人間模様を描きますよというアナウンスだったとも捉えられます。
アニメ映画『我々は宇宙人』を考察:あのラブレターは暁太郎にとってなんだったのか? 命綱だった可能性もある……

ここからネタバレが含まれるため、知りたくない場合は先に映画を見てから、ご覧ください。さて、私が本作において驚いたのが、ラブレターの使い方です。
暁太郎にとっての(おそらく)初恋の相手・小夏からの手紙。みんなから無視され、バレンタインデーのチョコレートももらえずにいた暁太郎にとって、あの手紙がもらえたことは舞い上がるほど嬉しいことで、その後の人生のヨスガにしていたところがあります。

とある事件のあと、みんなから無視され、いじめられ、彼の悪評は中学になってからも続きます。チャーハンというあだ名で笑われ、避けられ苦しみ続けます。親からも信じてもらず、妹もどうやらいじめられている様子。完全に地獄です。大人になってからも、誰も自分を見てくれない孤独な日々が続き、恨みと貧しさのループで、強烈な人間不信に陥っていきます。
親が引っ越しに伴い、暁太郎の荷物を送って来たというのも、詳しくは分かりませんが、おそらく町の中であらぬ噂が広がり、自分の家に居続けることが難しくなったのかもしれません。そう考えると、暁太郎が体験した苦しみは、いじめをとっくに通り越していて、ほぼ村八分にあっていた状況なのかもしれません。

これは余談ですが、私自身も小学校時代、長年いじめられていましたが、東京だからか中学へ進学したら、いじめが継続されるということはありませんでした。暁太郎の苦しみは、閉ざされた田舎のコミュニティならではの体験ということなのかもしれませんが、この辺りは物語的にやや過剰に演出しているきらいはあります。
さて、そんな生き地獄を経て、暁太郎は成長した翼と再会するわけですが、そこであのラブレターの真実を知ることに……。小夏からもらったラブレターだけが、彼の生きる支えだったわけですが、翼の告げた真実によって、その支えすら折られてしまいます。
ラブレターが持つ意味も打って変わり、まったく無価値なものへ変わってしまいます。翼がやったことはサイテイと言って差し支えないですが、では、あのラブレターのイタズラがなかった場合、暁太郎はどうなっていたのでしょうか?

小夏からのラブレターが、友達も家族も誰も味方してくれない暁太郎の生き地獄を辛うじて支えていたわけで、たとえイタズラだったとしても、暁太郎の命綱でもあったように思います。非常に逆説的な話ですが……。
ここにも手紙という1つの事象を基点に、一方はイタズラ、一方はラブレターという解釈をしており、そのねじれがあるわけですが、ここではもう一回転捻りを加えているように思います。イタズラだったものが命を繋いでいた可能性が提示されているわけで、人の営みの不思議さを感じずにはいられない、非常に深い表現ですよね。
アニメ映画『我々は宇宙人』を考察:メダカはなんで目高なの? 我々観客もまた彼らを見下ろしている

本作はメダカを基点に、話が大きく展開します。そして、このメダカという小道具は、本作の全体を貫く、重要なファクターであるように思います。小夏と暁太郎の会話からも分かる通り、メダカの目は高い位置に付いています。そんな高い位置からものを見られるメダカも、さらに上から落ちて来るものには反応できません。
この辺りに私は「宇宙人とは何ぞや」のテーマが潜んでいる気がします。メダカにとって、上から降ってくるもの、あるいは水槽をのぞく人間たちは高次元の存在であり、上から来る宇宙人のようなものです。本作で表現される宇宙人はみな、UFOに乗って上からやってくるイメージですが、翼がトラウマチックに目撃する宇宙人もたいがい、上からのぞき込んでいたかと思います。

暁太郎がクラス全体からいじめられるようになってからは、クラスみんなからのぞき込まれるような、精神的な風景が描かれていたかと思います。そもそも翼と暁太郎の出会いや再会にも、上からのぞく者、のぞかれる者の構図が展開されていました。再会後、翼と暁太郎がもみ合いになるシーンも、互いに上になったり下になったりして、のぞきのぞかれる構図が繰り返されました。賽銭泥棒しようとする暁太郎を見下ろすカップルもそうです。
また小学生時代の親や先生との関係においても、上からのぞき込まれる描写が多用され、大人はたいてい不気味に描かれています。メダカが人間に観察されるように、人間同士であっても他者から見下ろされ観察されることはあるわけで、それは上からエイリアンに見られている感覚に近く、対話可能性が薄い宇宙人のような存在にすら見えます。
特に学校の階段でたたずむ生徒たちの姿は、非常に印象的でした。それぞれが異なるレイヤーに存在し、現象を観察していました。みんな宇宙人のように、他人や現象を上からのぞき込んでいたわけです。ただ、面白いのはこの上下構造が崩れた時です。
例えば、翼と暁太郎が出会った時、最初は上下構造ですが、川に降りて同じ地平に立ったところから対話が始まり、仲良くなります。翼と母親の関係にも似たようなことが言えます。
お受験ママ的に厳しかった母は、幼少期ずっと上から翼を見下ろしていましたが、就職後、親子関係が改善すると見下ろすシーンはなくなります。暁太郎と翼のラストシーンも横並びだったのが印象的でした。

上下構造がある時は、相手が異質なエイリアンに見える。しかしフラットになり、同じ地平に立った時、初めて対話可能な存在に変化する。なるほど、上下構造とフラットな状態を、関係性の変化と共に、意図的に使い分けているのかもしれません。
それで言うなら、我々観客もまたエイリアンのように、翼や暁太郎の人生をのぞき見ている存在です。作中のいじめっ子たちのように、翼や暁太郎の不幸を見たいと、どこかで願っている、もっと言えば観察対象を上からのぞいて楽しんでいるところがあります。
我々もまた宇宙人なのだろうし、こうした観客の持つ欺瞞性を突き付けてくる構造とも言えます。あなたたちも、彼らと同じように人を見下ろして楽しんでいる、宇宙人なんだよと……。観客に対する批評を展開しているようにも受け取れます。
もちろん他者は宇宙人のように分からないというのが基本だとは思いますが、イチ宇宙人としてうがった見方をしてみたくなった次第です。
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