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まさに“プロジェクトX”――ゲーム黎明期を支えた男たち「ゲームデザイン・テクノロジーの源流」国際シンポジウム「インタラクティブ・エンタテインメントの歴史と展望」:(3/3 ページ)

12月2日、京都の立命館大学衣笠キャンパスにおいて開催された「インタラクティブ・エンタテインメントの歴史と展望」では、ゲームの創世記を支え、現在も活躍をしている「生き証人」を招いて、「ゲームデザイン・テクノロジーの源流」と題して、それぞれの視点に立った“歴史”が語られた。

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ファミコンすら知らない世代出現に困惑しつつも、任天堂の源流はファミコンではない

 第1部最後となる登壇者は、任天堂アドバイザー兼、立命館大学の先端総合学術研究科の教授である上村雅之氏。1967年に早川電気(現、シャープ)入社後、光線銃に関わった縁で1971年に任天堂へ入社、ファミリーコンピュータとスーパーファミリーコンピュータ開発の責任者となった人物が見た任天堂のゲーム産業参入のきっかけが明かされた。

 上村氏は冒頭、「任天堂の源流はファミコンじゃない、もっと前からあったんだという話をします」と快調に飛ばす。家庭用Pongが、任天堂にゲーム産業に参入しようと決意させ、「Break out」が自分たちでテレビゲームを作ろうと決意させた動機だったと語る。

 任天堂は、花札やトランプ、光線銃やラブテスターなどの玩具や、業務用の遊技機を販売する会社であった。米国のテレビゲームブームの余波から1976年、家電メーカーや玩具メーカー、半導体メーカーがこぞってテレビゲーム機を販売するに至って転機が訪れたのだという。

 各メーカーはこのテレビゲームの扱いについて様々な意味づけを行うことになる。松下電器や東芝、シャープなどの家電メーカーは、これはあくまでも「テレビの周辺機器」または「内蔵機能」であると捉え、またエポック社や、バンダイ、トミー、タカラ、学習研究社などの玩具メーカーは「ゲームのできる電子玩具」と考え、そして三菱電機や日本電気、沖電気などの半導体メーカーは「ポスト電卓」とし、各社がそろって「Home Pong」に類似内容のLSI(集積回路)を一斉に開発着手した。

 当時、半導体メーカーは、“電卓戦争”と呼ばれるほど熾烈な価格競争に疲弊し、電卓に代わる商品を模索。競って新しい産業として、「Home Pong」に類似したLSI開発に着手、泥仕合を展開していた。その1社の中に、三菱電機の半導体生産事業部があった。同社はシステック社からのLSI開発を依頼されていたものの、そのシステック社の倒産により、巡り巡って開発途中のLSIを任天堂が買い取り、販売することになったという。これが任天堂のテレビゲームの源流となるのだ。

 こうして1977年、任天堂は家庭用ゲーム機へ参入することになる。「カラーテレビゲーム6」と「カラーテレビゲーム15」としてそれぞれ9800円と15000円で販売された。残念ながら上村氏曰く「Pong」の類似品でしかない、とぶっちゃける。内容的にはPongのなにものでもなかったが、特筆すべきはその販売戦略。

 当時、テレビゲームは2万円を軽く超えるものも多かった。「テレビゲームを誰が買うのかを常に意識しており、それは子供達であろう」と、面白いことに過敏に反応するも、経済的に自立してない子供のために、破格の値段をつけたのだという。現在に続く“任天堂の遺伝子”が垣間見える。

 LSIは、任天堂が抱えていた従来の玩具にできなかった機能――「ルールを正確に判定」「得点を正確にカウント・表示」「ボタン操作するだけでゲームが開始・リセット」できるという、「夢の玩具」となった。

 続く1979年、任天堂は「Break out」の日本語版「ブロック崩し」を、強気の13500円で発売するも、インベーダーブームに巻き込まれ予想よりも売れなかったと明かす。ちなみに、このマシンのデザインをしたのが、入社2年目の宮本茂氏であると、ちょっとしたエピソードを披露した。

 こうして任天堂とLSIの幸福な出会いによって、のちにファミリーコンピュータが生まれることになる。任天堂はその後、予想を超えるマーケットを実現する。上村氏は「それもひとえに、ゲーム制作者達の地道な努力、半導体を中心とした技術進歩、そして世界中の子供達の協力があってこそ」と考察した。

 「ゲーム機が夢の玩具を超える存在となってしまったことで、逆に子供たちの夢を奪い、押しつけてしまっているのではないか。太古の昔から子供は、玩具とつきあうことで1人前の大人になってきた。玩具の開発経験者の1人として、ビデオゲームが子供たちの夢の玩具であり続けることを願ってやまない」と、ゲームを取り巻く現状を危惧した。

 最初のゲームは大学の研究室から生まれた、と上村氏は改めてゲームの歴史を列挙する。「そうした自由な遊びを生み出す力を大学は持っているはずだが、残念ながら日本ではそうとはならなかった。しかし、今でもそういう力を持っていると確信している。このシンポジウムが刺激になればいい」と会場を見渡す。来場者の中には多くの学生も混じっている。上村氏はそんなこれからの世代に向けてのメッセージで締めくくった。


 このあとの第2部ではエンターブレインの浜村弘一氏のコーディネートのもと、任天堂の宮本茂氏、Valveのロビン・ウォーカー氏、コナミの小島秀夫氏によるディスカッションが行われた。こちらは別の項目で紹介する。

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