きらめく萌えの背後に隠された質実剛健さを読み取れ:「シャイニング・ウィンド」レビュー(1/2 ページ)
「シャイニング」シリーズ中でも歴代最高と呼べるほど萌え路線を突き進んだシャイニング・ウィンド。だが、この作品をそれだけで割り切ってしまうのは正しいのか。萌えの背後に隠された見えざる意志にこそ、制作陣に真意が込められているのではないか。
明確な意図とそれに合致した表現方法
「シャイニング・ウィンド」は、セガ伝統の「シャイニング」シリーズに連なる作品だ。これは1990年代初頭から足掛け15年に渡って展開されているシリーズで、16ビット機のメガドライブからモバイルまで、多種多様なハードでリリースされている。間違いなく、セガを代表するシリーズの1つだ。
ただ同時に「シャイニング」シリーズは個々の作品の独自性が強く、シリーズとして強い一貫性を持っているわけではない。ジャンルもシミュレーションRPG、普通のRPG、アクションRPGなど、多岐に渡る。例えて言えば、つねにトップいながら次々と音楽性を変えているロックバンドに似ている。
そうした流れの中で、2004年にプレイステーション 2で発売された「シャイニング・ティアーズ」から、新たな要素が付加された。キャラクターゲーム路線の強化。美少女美少年美青年をずらりと並べ、恋愛ゲーム的な趣向を盛り込んだのだ。今回の「シャイニング・ウィンド」では、この路線がさらに強化され、単なるキャラクターゲームというよりは声優ファンも意識した、アニメスタイルにシフトされている。ゲーム発売に先立って、TVアニメ「シャイニング・ティアーズ・クロス・ウィンド」も放映され、劇中にもアニメムービーが頻繁に挿入される。その演出は、明確に“萌え”を狙っており、見せ場である心剣を抜くシーンでヒロインたちが見せる表情は時にエロテッィクですらある。かなり思い切った演出だ。
作品ごとにタイプが違っているシリーズとはいえ、ここまでの急激な変化には戸惑うユーザーも多いかもしれない。だが、その是非はここでは触れない。好きか嫌いかということは、究極的には個人の趣味嗜好に属し、レビューが扱う領域ではないからだ。どんな名作にもアンチファンはいるし、逆にあまり人気がなかったソフトにも熱烈なファンは存在する。レビューは、そうした主観性を極力排して、作品の評価をすることに意味がある。その視点から考えた時、筆者が強調しておきたいのは、「シャイニング・ウィンド」は萌えだけで論じていいのか、ということだ。もちろん、萌えがふんだんに盛り込まれ、それが前面に出ているのは間違いない。だが、それだけなのか、というととてもそうは思えない。むしろゲームとしてのできはいいでのは、というのが印象なのだ。
そう考えるのには、2つの理由がある。
まず第1の理由についてだが、その前に一言申し上げておくと、先ほど、好き嫌いと評価の良し悪しは違うということをお話しした。その区別をどこに付けるか。筆者は、それを制作者の意図がどれだけ具体的に実現されているか、という点に置く。企画の対象や意図が明確で、最良の手法を選んでそれを具現化している。これが評価上のいい作品だ。エンターテイメントとアートの違いもここに起因すると言っていいだろう。エンターテイメントは受取手である顧客がいて初めて存在する。お金を払ってくる人に合わせることは不可欠だ。お客に媚びるのは問題だが無視してはいけない。自己の表現への欲求と顧客の欲求が衝突した場合、エンターテイメントであれば、制作側が折れるのが原則となる。仮にエンターテイメントの天才がいるとすれば、自己の欲求と顧客の欲求が自然と合致する人を指す。古人の言葉ではないが、己の欲するところに従えども法を超えず、の状態を意識せずに作っている人なのである。こんな人はそうはいない。
「シャイニング・ウィンド」における企画の対象は何か。これはもうはっきりしている。この作品の対象は、アニメファン、声優ファン、そしてゲーム初心者、いわゆるライトユーザーだ。これは極めて明白で、まったくブレがない。
まず、アニメファンにとって。ふんだんに挿入されるムービーは萌えアニメのスタイルを堅守し、そこから逸脱していない。TVアニメともストーリー上の関連をもたせ、アニメとゲームをともに体験することでより世界観が深まる作りになっている。
次に声優ファンにはどうか。この点では、よくもこれだけビッグネームを並べたと思えるほどの豪華メンバーを起用している。メインキャストの顔ぶれは贅沢すぎるくらいで、ギャラだけでも相当だったのでは、と余計な心配をしてしまうくらいだ。
最後にライトユーザーにとって。これも文句ない。一見システムが多くて複雑そうに見えるのだが、戦闘の難易度はかなり低く、システムを使いこなさずともどんどんゲームが進んでいく。終盤に入るくらいまでは負けることがあまりなく、仮に倒されても、ゲームオーバーにならず、続きから再挑戦できるようになっている。敵がどかっといるステージでも、繰り返しやれば、だんだん敵の数は減っていくはずで、あきらめずに繰り返していれば、必ず勝てる。それもいいところ3回くらいが上限で、通常は2回もやればどんなステージもクリアできるだろう。例外は極め要素的なやや強めの敵と、ボス戦くらい。だが、これらの敵はいわば強くて当たり前。ボス戦がザコ戦よりも難しいからといって難易度が高いということにはならない。
このように「シャイニング・ウィンド」は、対象を明確に絞り、その層を意識して作り、それを形にしている、という点において高い実現度が持つ作品となっている。プロデュースの面から見れば、かなりの完成度だ。対象が明確なだけに、その対象に含まれない人には厳しいかもしれないが、ゲームは基本的に嗜好品なのだから、それは論じても始まらないだろう。コーヒーが嫌いな人にどんないいコーヒーを呑ませようとしてもダメなのと同じだ。
対象外ユーザーとの関係はどうか
先ほど、「シャイニング・ウィンド」は、プロデュース面での完成度が高いというお話をした。しかし、ここで忘れてならないことは、制作面における質の高さだ。ハリウッド映画などではよくあるが、大した出来でない映画をプロデューサーの手腕と宣伝で大ヒットに持っていってしまうことは珍しくない。大ヒット作=傑作ではないのは映画ではもはや常識で、だから映画の熱烈なファンは宣伝文句にはいっさい耳を貸さず、自分の経験と主観で見る作品を探す。プロデューサーの勝利とディレクターの勝利は違うのだ。
ゲームにもそうした面はある。そこで、「シャイニング・ウィンド」だが、この作品のメインターゲットは、アニメファン、声優ファン、ライトユーザーだ。筆者はこのどれにも該当しない。アニメに関しては自分でもあきれるほど知らない。子供の頃はアニメ番組を普通に見ていたはずなのだが、小学校4年生の頃から映画にハマってしまい、まったく見なくなった。クラスにもう1人そんなヤツがいたので、昔はあんまり規制にうるさくなかった映画館に、そいつと連れだってやたらと入り浸っていた。そんな具合で筆者が知っているアニメは映画だけ、それも著名作のごく一部に過ぎない。野球に例えれば、3アウトで交代というルールも知らないくらいの、初心者以前のレベルだろう。
声優については仕事の関係でいろいろな方とおつき合いすることになるので、面識はそれなりにあるが、グッズを買ったりしたことはない。誰が有名か、その人がどんな作品に出ているか、といったことは仕事上調べるし、データベースも作っているが、それが趣味に反映されることはまったくない。ライトユーザーには関しては、これも多分違うだろう。個人的に好きなゲームは、コンシューマならば洋ゲーか洋ゲーテイストの強いホラーかバイオレンスアクション、パソコンならば経営シミュレーションかリアルタイムストラテジー。まあ、どう考えてもライトではない。
ちょっと個人的な話が長くなってしまって恐縮だが、こういうわけで筆者は完全に「シャイニング・ウィンド」が意図した対象ではない。ところが、ゲームをプレイした感想は“面白い”だった。これはどういうことか。別に萌えに目覚めたワケじゃない。むしろ、そっちは改めて自分に適性がないことを思い知らされた。理由はもっと別なところにある。このことについて考えていた時、その部分こそが「シャイニング・ウィンド」の核ではないかと思うようになった。前面に強く強く押し出されている萌えの要素。その光彩は強烈で、目がくらんでしまうけれど、実際には光に向こうにこそ、真実の姿があるのではないか。大仰に言えば、そんな印象を覚えたのだ。
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