インタビュー

遠藤雅伸に聞く:ゲームデザイナーとなるには、ゲームの面白さを知るには、どんな本を読めばいいのか?(3/5 ページ)

ゲームデザイナー&研究者・遠藤雅伸インタビュー。

advertisement

遠藤雅伸の青年期――何を読んでゲームデザイナーになったのか?

―― 次に先生の青年期のお話、小中高のころをおうかがいします。その時代にゲームや特別な書籍に触れられたことがその後に影響されたのでしょうか?

遠藤 いや全然ないね。中学は吹奏楽部でした(※)。音楽の教育をちゃんと受けていたし。大学卒業するまでクラシックピアノを続けていました。

※横浜市立田奈中学校(横浜市緑区、共学)卒業

 余談ですが、後年「日本BGMフィルハーモニー管弦楽団」に関わることになったのはそれが発端で(後述)、最初のゲーム音楽レコードを細野晴臣さん(現・京都精華大学客員教授)と一緒に作ることになったのはそのご縁です。

advertisement

 先方が会いに来てくれたのですが、もともと細野さんとは、僕の友人がYMOのカメラマンをやっていてわりと近い関係にありました。そこから「何か一緒にやりますか?」「ではアルファにレコード作りで冒険させていただきますか」という感じで始まったわけです。

―― もともと音楽にご興味あったのですね?

遠藤 そうですね。ゲーム音楽の音源化、レコード化は望まれていましたしね。ラジカセ持ち込んでゲームセンターで録音していた時代でもありました。

―― ナムコに1981年入社したのは音楽の才能をゲームに生かしたかった?

遠藤 そんなことはないです。僕は画像工学科だったので(※)、勉強したのは写真工芸学と物性、つまり写真撮ったり、電子写真や半導体の研究、バリバリ工学系でした。

advertisement
※当時の千葉大学工学部画像工学科。後の画像科学科で現・総合工学科物質科学コース

 入社したのはエンジニアとして。それも純然たるエンジニアではなく、工芸学の観点からテレビのディレクターみたいなこともしていました。もともとフィルム系のディレクターを志望して応募もしましたが、結果的には受からなかった。

 高校では演劇部もやってましたし、大学では映画も撮っていました。映画、演劇、そうした総合芸術系の活動をした上で「新しい総合芸術の形としてゲームもあり得る」と思ってその方面に進んだわけです。

―― いま「総合芸術」という言葉が出ましたが、絵画や音楽といった芸術作品とは何がどう違うのでしょうか?

遠藤 総合芸術というのはいろんな物が集まって1つの形になっているものです。音楽も芸術ですが、音楽PVは映像が付いてくるので総合芸術に当たります。映画も総合芸術です。ただし無声映画は総合芸術性が下がる。

―― では次は大学時代からナムコ入社の話に移ります。入社は1981年。そのころにパックマンは出ていたのでそのイメージで入社された?

advertisement

遠藤 いや、全然違います。僕はアタリファンだったので、アタリジャパンの親会社だったことに引かれて入りました。そのことをナムコの社長が覚えていて「遠藤さんはアタリが好きだから」とアタリ社に交渉してくれたので、アメリカ版のゼビウスはアタリ社から出ています。

 アメリカ版が完成した後にアタリ社が招待してくれた。そのときの写真、アタリ社の工場で生産中のゼビウスとともに僕が写っているのが一番好きだったのに、それを人に貸したら雑誌に掲載された後で返ってこない。いつの間にかネットに上がってさえいる。ネットで見れるからいいや、とは思うけど、1枚しかない紙焼きを貸したのだから返してほしい。

―― ところでゼビウスといえば、遠藤先生は「ゼビウスの開発はいろいろな俗説が流布していて迷惑だ」というお話をされているようですが。

遠藤 ……という伝説が流布しているわけですね。

 開発時に周りの方々は協力的でしたし、反対された人たちも折れてくれました。ゼビウスは実際1982年に完成しています。

advertisement

 入社時にはコンピューターの「コ」の字も知らず、ハードもソフトも分からなかったので、仕方がないからプログラムの勉強を始めたのが開発のきっかけ。

―― ナムコの公式サイトでは「ゼビウス」に高い評価がなされていますが?

遠藤 どうなんでしょうね。多分ビデオゲーム開発の中では直球的なものではなく、技術ができてそれを立証するために作られたような作品です。

 アーケードゲームとしては総合芸術的。グラフィックで魅せる側面、音で聞かせる側面、ゲームとしてやっていく中でストーリー性を感じさせる面がある。ゼビウスはナラティブだったと思います。今になれば「ナラティブ」という言葉が出てくるわけですが。

―― それはゲーム制作で総合芸術性を強く意識しているという意味ですか?

advertisement

遠藤 そうではないです。どちらかといえばフラストレーション型の作品作りになっています。

 「これはなんでこうなっていないのか? こう作ればいいのでは?」と思った結論として自分で制作してみる。一番典型的なのはゲーム「ケルナグール」(1989年)を作ったのはPCエンジンのゲーム「THE 功夫」(1987年)に不満だったからです。「THE 功夫」中の大きなキャラですと物が飛んできて回避するのが面倒なので「キャラがもっと小さければ避けるのも簡単なのでは?」と思ったのがきっかけでした。

―― ところでゼビウスがストーリー性の強い作品なのはご指摘通り明らかですが、遠藤先生自身のブログはかなりシンプルですし、ゲーム制作者としてストーリー性を強く求めている方では必ずしもないようにお見受けします。

遠藤 自分では、むしろゲームの持つ根幹の部分を削って作る、日本のゲームの本質的部分に進もうとしている、のだと思っています。

 「ファミリーサーキット」(1988年)もストイックな作品です。あの作品のように、車同士がぶつからず素通りして石にだけぶつかる、そういうデザイン上の判断ができるのは日本だけだと思います。

 そういう判断は、リアルでしか語ることのできない国ではできないけれど、日本ではそれでもってゲーム性が向上している。「車同士がぶつからない方がストイックだし面白い」とご理解いただけるのは日本だけ、と思っています。

―― 今のお話に関連するのですが、遠藤先生は前々からご自身の研究者としてのモチベーションはゲーム文化の解明にある、特に日本とアメリカとの比較で「日本のゲームにはこれこれの特徴がある」という点を究明したい、と仰っていました。ゲーム文化に関する各国の地域的特性(ローカリティ)についてお考えをお聞かせください。

遠藤 そのことでいえば、韓国には何度も招待してもらっていろいろお話を聞いていますし、中国の場合は同級生や留学生で同国の出身者が多い、また2016年はドイツに行きまして、そういう形で相互理解を深めてきました。

 例えば日本人が外国車を選ぶ。アメリカのフォード、ドイツのベンツ、どちらを選ぶかとなるとドイツ車を選ぶ、それは日本人が納得できる「何か」があるんだと思います。

 そんな風に各国の人々と交流を深めていく中で分かってきたのは「アメリカは特別な国なんだ」ということです。

―― アメリカは世界で有数の市場ですが、同時にクセの強い国でもありますよね。

遠藤 アメリカとは、ヨーロッパ人の言葉を借りると「田舎」なんです。独自の文化を育てようとしている若い国で、価値観を1つにしたいという努力をしている。価値観の多様性をあまり認めない。

 ただしそういうことを分かっている若い人たちが増えているので、アメリカもだんだん変わっていくのだとは思います。

―― それに関連して教育者としての遠藤先生にお尋ねするのですが、学生に教えるときはゲームの地域的特性(ローカリティ)を強調しますか、それともゲームの普遍的・共通的部分を中心にしますか?

遠藤 ゲームの作り方として、日本はどう作るか、日本人だったらこう作っていく、ということは説明しています。具体的にはコンセプト主導であったり、要素を削ぎ落してから複雑化させて面白味を深めていく、そういう方法論を重視している。逆に「取りあえず撃つ」のはダメ、と注意しています。

 ゲームのプレイも、アナログゲームだけでなく、何でもやってみなさいと指導しています。どんなものでもやってみて知識をためることは損にならない。

 ゲームに限らず体感できること、例えば「バンジージャンプができるチャンスがあるなら、やってみなさい」と推奨もしています。知らないより知っている方が良いわけで、使えるものは使っていった方がいいじゃないですか。「ゼビウス」はアニメの動きに触発されて動作させている作品ですし、「ドルアーガの塔」(1984年)もそうですね。

―― 質問がだいぶんそれてしまったので、元に戻します。幼少期に読まれていた本のことですが……?

遠藤 小学生のころに一番読んでいたのは、文学全集ですね。全50冊くらいの全集、世界の名作文学みたいなのをです。ファンタジー系のものも読みましたが、読んだ上でいいますと、どれもそれほど印象深くなかった。

 中学に上がったときには哲学書を読みました。デカルト、モンテーニュ……「モラリストって何だろう?」という動機からですね。パスカルも嫌いじゃない。デカルトが好きな理由は演繹(えんえき)法、確実なモノを積み重ねて論点を明らかにする、その論理学が面白かったからです。学生に対して「読んでください」と薦めるほどではないけれど。

―― そういう哲学書はお家にあったのですか?

遠藤 全部自分で買いました。父が出版社の社長だったおかげで、本はいろいろありましたし、欲しければ何の本でも買ってくれました。

 あと子どものころに読んだ本といえば、百科事典ですね。中学のころに「原色百科事典」といった、写真が入っている、子どもが見て楽しい事典。全十冊くらいだったかな。何かを調べるときについでに近くの項目を見てしまうので、最初から最後まで読んでしまいました。

―― 幼少期から王道路線をお読みになっていた?

遠藤 そうですね、知識は人を裏切らないので。

―― するとフィクション系はお読みにならなかった?

遠藤 いや、そんなことはないです。自分で探して読んだのは「オズの魔法使い」「アーサー王と円卓の騎士」……ファンタジーで古典的な作品を読んでいました。

 日本の作品でも先ほど話した文学全集の中に入っていた「古事記」「霊異記」など読んでいます。でも印象はみんな同じですね。「イソップ童話」と変わらない、こういう物があるんだな、という程度です。

―― ところで先ほどデカルトなど哲学書の話が出ました。そもそも触れることになったきっかけを改めてうかがいたいのですが?

遠藤 それはですね、中学のころに「人間という存在とは何か?」「自分とは何か?」という疑問、思春期にありがちな問いに解答が欲しかった。そこで宗教に行かず思想に行った。

 特に印象に残っているのはデカルト「方法序説」ですね。そこからいろいろ読むものの幅が広がっていった。方法序説の大事な点は、特に「私、つまりいま考えている自分が存在することは否定しようがない、ということが根拠だ」という発想なんです。絶対に疑うことのできないこと、それは「居る」ことでしかない。「居る」ことが確実でなければ、なぜ「居る」のかも論じられない。

 そんな風に考え方を論理的にしなければいけないという発想が、ゲームデザインにつながっています。なぜこうするのか、こういう風にしたい、それならどうすれば最も効果的なのか……考えながらルールを追加するデザインをしています。

―― 学生には哲学書または論理を学ぶための本を推奨されてはいませんか?

遠藤 今どきそんなことをしても意味がない。それよりは実践の中から「論理的に考える」とはどういうことなのかを口伝した方が早い。

―― デカルト、モンテーニュの話が出ましたが、2人の何にご興味がおありでしょうか。

遠藤 モンテーニュは訳分からないこと言っていてウサン臭い。どちらかというとパスカルに共感を持っています。

―― その後の哲学者、ルソーやニーチェ、キルケゴールはどうですか?

遠藤 ルソーも読みましたが、あまり心に響いていないですね。あんまりプリミティブではない、社会的な観点も含んでいますし。ニーチェ、キルケゴールは読んでますが「だからどうなの?」という印象です。

―― ベースとして好まれているのは論理学としての哲学ということでしょうか?

遠藤 そうだと思いますね。音楽系でもいろいろやるのですが、ロマン派とか……ピアノを弾いていたのでショパンは一番好きです。

―― 音楽系の楽理書は何かお読みになっていますか?

遠藤 楽理書といいますか……和声は一応全部習っています。昔は絶対音感あったのですが、トランペットを吹くようになってずれてしまいました。

―― トランペットもおやりになっているんですね!

遠藤 それなりにやっています。2本持っていますね。ただゲームをやるようになって活動はほとんどしていません。ただ記憶が定かでないのですが、何かのゲーム雑誌で音楽について書いたような……エレキベースを持っている写真がどこかに残っていると思います。

―― 2012年の「日本BGMフィルハーモニー管弦楽団」設立は、そうした遠藤先生の音楽経験に由来するのでしょうか?

遠藤 日本BGMフィルはもともと「ゲームのプロによるオーケストラを作ろう」という構想でした。でも内容的には「プロ」と呼べるレベルになっていなかった。紆余(うよ)曲折あって私が代表理事になったんですけど、社会的に活動するには難しかった。

 それでいったん「プロのオーケストラとしては存続しない方がいい」「オーケストラでやるなら収益を得る体質にすべき」という方針で立て直し、株式会社になったのがJAGMO(Japan Game Music Orchestra)ですね。そちらの活動は盛んになっていて「日本のゲーム音楽はプロで演奏する」ことを実践しています。

 片や「ゲームを演奏したい」という思想のところは「新日本BGMフィルハーモニー管弦楽団」。そちらを通じてプロの方々がインディペンデントな形で集まり活動しています。

 どちらにせよ最初から「プロ」でやろうという考え方でして、プロでない方はおやりにならないでください、ということで日本BGMフィルは発展的に解消することにしました。

―― 「ゼビウス」のグラフィック性やストーリー性に話を戻しますが、アニメ作品とも関連あるとのお話が出ました。大学時代はどんなアニメやSFに触れていたのでしょうか? いま見ておられるもの含めてお答えお願いします。

遠藤 E・E・スミス「レンズマン・シリーズ」は読んでいました。「火星シリーズ」のバローズよりはスミスの方が好きです。真鍋博さんの挿絵が好きだったということもありますが。

 中学のころには星新一、小松左京、筒井康隆の辺りは大体読んでいました。中でも星新一さんの、透明感というか「色」のついてない感じ、コンテンポラリー(永続的)な内容をめざそうとするところには影響されています。

 アニメ系ですと当時のアメリカの作品で、日本語になっていたものはそこそこ見ています。「新世紀エヴァンゲリオン」もテレビと映画全部見てますね。リアルとかぶっているところがいいですね。第三新東京市(※)には時々通ってます(笑)。

※アニメ「エヴァンゲリオン」の「第三新東京市」とは箱根のこと

 それと「涼宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん!」も好きですね。音楽はスゴくよかったと思う。ただし残念な点があって、「けいおん!」の第2話目で主人公たちがエレキギター「ギブソン・レスポール」を買いに行くシーンがある。あれがおかしいのは、シーン中の値切りによって価格が5万円となっていた。そんな価格で買えるなら、私が買いたい(笑)。「ギブソン・レスポール」は中古でも10万円以上する。つまり制作側にリアル志向が足りないということなんです。

 なお今はアニメをリアルタイムで見ることは「おそ松さん」のような話題作を除いてありません。何を見ればいいか、最大のニュースソースは学生です。

―― 遠藤先生の青年期ですと「スタートレック」が始まったころですが……?

遠藤 「スタートレック」は多分全部見ています。「トレッキー」というほどでもないですが。「スターウォーズ」の方が好きですけど。

 ただ最新の「スターウォーズVII」ですが、私にとって「スターウォーズ」とはエピソードIV~VIであり、それ以外はリメークだと思っています。もちろんどれも作品として良い物ではある。逆にオリジナル三部作(IV~VI)でも「ここはこうすれば良くなる」点は見受けられますね。

 例えば「スターウォーズ」は全般的に編集が甘い。「この点は何とかなるのでは」「こうすれば娯楽作品として良くなるのでは」という印象ありますね。ちょっと長いシークエンス、抜いても成立するエピソードなどなど……むしろ逆の方向から考えるといいのでして、例えば映画「ロード・オブ・ザ・リング」におけるピーター・ジャクソン監督の編集はきれいだったと思っています。

―― それは「ロード・オブ・ザ・リング」の原作「指輪物語」をお読みになった上でのご判断?

遠藤 子どものころに読みました。読むのがうっとおしくなるほどの長さですね(笑)。あんな冗長な表現はいらなかったかもしれない。「早く進めてほしい」とは思いました。とはいえ「指輪物語」は文学表現としてのトライとして描かれているので、それはそれでいいんです。

―― 最近の2000年代以後になって何か小説は読まれていますか?

遠藤 ここしばらくは忙しくなって読まないですね。しかしこうして振り返ってみるといろいろ読んではいます。ミヒャエル・エンデ(ドイツの児童文学作家)も読みました。ただし映画「ネバーエンディングストーリー」の出来がひどかったのは残念でした。女優のレベルは高かったんですけどね。

 それから読んだといえば「ハリーポッター」シリーズは最後には我慢できなくて原書取り寄せて読みました。最初は邦訳版を読んだんですが、だんだん追っているうちに翻訳スピードに辛抱しきれなくなり、ラストのときは原書で「なるほどコイツはアイツと結婚したのか!」と知ったわけです。

―― するとお気に入りのキャラはハーマイオニーですか?

遠藤 映画版も観ましたが、俳優のエマ・ワトソンは気に入っています。成長の仕方が面白い。ただ作品や彼女のファンというわけではない。ああいう風な人種差別的捉え方をイギリス人はするんだな、とそこに興味あります。

 あと面白い本で今でも読むのは、吉川英治と横山マンガの「三国志」ですね。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.