レビュー

私が「シェイプ・オブ・ウォーター」を劇場に見に行かない理由 映画作品に”手を加える”ということ

表現の規制と、責任の所在。

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 ギレルモ・デル・トロが好きだ。

 「ミミック」の異形が好きだ。「クロノス」の少女が好きだ。「パシフィック・リム」のフェティシズム溢れるロボットたちが大好きだ。

 「クリムゾン・ピーク」の虚ろに砕けた城が好きだ。「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」のオープニングが好きだ。「パンズ・ラビリンス」に描かれた社会と幻想の入り乱れるラストが愛おしくてたまらない。

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 彼は作品のクォリティに絶対の信頼がおける、数少ない芸術家のひとりだ。だから予告編も見ていない。あらすじも極力目にいれていない。ポスターのビジュアル以外、ほぼ何も知らない。まずは何より、作品だけを見るためだ。

公開前週の「編集」発覚

 “「シェイプ・オブ・ウォーター」の日本公開版は、重要なシーンが編集されている”という情報が入ってきたとき、またか、と思った。ここ最近、この手の話は定期的におこる。

 最も有名かつ醜悪なのは"Lat den ratte komma in"(「ぼくのエリ 200歳の少女」。口に出したくもないタイトルだ)における改変だろう。本作は無修正で流すべきシーンにぼかしを入れることで、作品の重要な位置を占めるひとつのツイストを、文字通り完全に覆い尽くしてしまった。さらに薄汚れた邦題でその歪なごまかしを上塗りしたのだ。

 ニール・ブロムカンプ監督作「チャッピー」もそうだった。国内上映時、数秒間のカットが「監督の承認を得ずに」行われたとの疑惑がおこり、騒動になった

 絶叫上映のリピートが話題の「バーフバリ」もまたカットの憂き目を見ている。こちらは本国版に比べ、海外配給版はじつに前編、後編を合わせて約50分間ものシーンがまるまる削除されている。

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 過度なエログロをテレビで流せとは言わない。だがここは映画館で、ゾーニングは比較的容易だ。パク・チャヌク監督「お嬢さん」はもとより、あの悪名高き「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」でさえ、(本公開に1週間遅れてとはいえ)R-18版が公開されていたというのに。

最高の監督「ギレルモ・デル・トロ」

 映画は総合芸術だ。2時間前後の映像の製作に何百人という数の人々が関わり、何十億、ときには何百億の額がつぎこまれることも珍しくない。場面ひとつひとつに自らの描きたいもの、伝えたいことを明確にイメージし、膨大なスタッフをまとめあげ、的確に予算を割り振り、完成に導く。この考えるだけで途方もない作業をやってしまえるのが映画監督という人間だ。

 幾多の才能の中、本年度の全米監督協会賞・長編映画監督賞に選ばれ、間もなく発表される第90回アカデミー賞。その監督賞の最有力候補とされているのが本作の監督、ギレルモ・デル・トロだ。言い換えれば、今この瞬間、映画監督として、間違いなく最も輝いている男の、マスターピースとなりえる作品が「シェイプ・オブ・ウォーター」なのだ。


ギレルモ・デル・トロ監督

 デル・トロには長年の悲願の企画があった。ラヴクラフトの代表作、「狂気の山脈にて」の映画化だ。“Rated R(R指定)”のまま製作直前までいっていた同作は、予算を回収するためにレイティング引き下げを求めるユニバーサルと、それに反発したデル・トロのすれ違いにより消滅している。

 “もし「狂気の山脈にて」をPG-13で撮れていたら、いや、「それで撮ります」とそう答えていたら……僕は真面目だから。嘘をつくべきだったのに。僕はそうしなかった”

"Guillermo del Toro Says He ‘Should Have Lied’ About the ‘At the Mountains of Madness’ R Rating"(IndieWire)

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 さらには昨年2月、彼は「ヘルボーイ3」企画の完全消滅をTwitterにて発表している。

 これらの苦難を乗り越え、めげずに自分の描きたい物を描き続け――前作「クリムゾン・ピーク」の半分以下、「パシフィック・リム」の約10分の1の予算で“Rated R”の作品を撮り――ついに絶対的な評価を得たのが本作だ。

 どういう無神経があれば彼の作品に手が加えられる?

 もはやデルトロ作品恒例となったアートワークブック。本作の元ネタとされるロシア産の怪奇映画「両棲人間」とその原作、次いでユニバーサルの名作「大アマゾンの半魚人」「半魚人の逆襲」のDVD。盗作騒動の持ち上がった「Let me hear you whisper」のスクリプト、そしてもちろん「シェイプ・オブ・ウォーター」のスクリプト、ノベライズ。

 これらすべてを作品読解のために揃えた、または予約した。だが作品が歪められている恐れがあるのなら、これらのページをめくることすらままならない。

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 聞けば東京国際映画祭では無編集版が上映されたという。つまりR-18を明記すれば、上映自体は国内で問題なく可能なのだ。参加できなかったのが悔やんでも悔やみきれない。

責任者の不在

 実際の修正は「なんだこの程度か」というような、わずかなものかもしれない。事実FOXサーチライトピクチャーズは2月27日、修正箇所を“カット・差し替えはなく”、“1箇所のみぼかし処理”と明記した。だが、1箇所のぼかし処理でねじまげられたのが「ぼくのエリ」だ。

 監督の承認を得て、と配給は言う。別会社の「チャッピー」の例を出すのも申し訳ないが、信じられない。SNSでの情報拡散がなければ、そもそもこの発表がされたのかさえ謎だ。Twitterではデル・トロファンが数名、直接彼にリプライを飛ばしている(「チャッピー」時の「監督の了承を得て」という嘘が暴かれたのも、ファンのリプライが原因だ)が、残念ながら今のところ返答はない。

 つまり更に不幸なことに、このようなことが起こっても、観客側は「誰の意向で、誰が編集したのか」全くわからないのである。海外での売上を確保するために権利元が行っているカットなのか、それとも製作者側の配慮のぼかしなのか、日本での配給を担当する側の都合なのか。責任の所在が一切不明なまま、ただ不完全な作品を見せられる側の気持ちも考えてほしい。どこが誰の意向で編集されているのかを考えながら、作品を楽しめるわけがない。少なくとも、今回の日本公開版を「ギレルモ・デル・トロ最新監督作」として見るのは断じて受け入れられない。


 3月13日、海外版のブルーレイ・DVDが発売される。こちらが届いた後、追ってレビューを行いたい。

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 劇場には行かない。

 ふざけんな。

将来の終わり

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