「今のうちらに必要なのは真実じゃなくて矛先だからさ」 映画「架空OL日記」は優しい世界で本質を突き刺してくる名作
“映画化ならでは”の派手さを徹底的に排除した演出が成功した作品。
「女の朝はやることが多い」「今のうちらに必要なのは真実じゃなくて矛先だからさ」――。バカリズムさん原作の映画「架空OL日記」が2月28日から上映されています。「映画だから」と大風呂敷を広げない“私(升野)”たちの日常を、都内でガチOLとして働く筆者がのぞいてきました。以下ドラマ版、映画版に関するネタバレがありますのでご注意ください。
「架空OL日記」とは?
バカリズムさんが2006年からOLになりきってリアルすぎる日常をつづっていたブログ「架空升野日記」。2013年には小学館文庫から書籍化された他、2017年4月には「架空OL日記」としてドラマ化され、2017年6月度の「ギャラクシー賞月間賞」を受賞したほか、バカリズムさんは「第55回ギャラクシー賞のテレビ部門特別賞」と「第36回向田邦子賞」を受賞。その後映画化に至りました。
主人公はみさと銀行に勤める入行6年目のOL、私(升野/演:バカリズムさん)。同僚の藤川真紀(マキちゃん/演:夏帆さん)、先輩でしっかり者の酒木法子(酒木さん/演:山田真歩さん)、姉御肌で上司にもハッキリ物をいえるタイプの小峰智子(小峰さま/演:臼田あさ美さん)。天然だけど憎めない後輩の五十嵐紗英(サエちゃん/演:佐藤玲さん)、独特のセンスを持つおっとり系の真壁香里(かおりん/演:三浦透子さん)といった銀行内の小さな女性コミュニティーを“私”の視点から描いています。
この作品の最大の特徴であり、極めて異質なのが、女性行員の“私”こと主役の升野を原作・脚本を務めるバカリズムさんが演じているという点。失礼を承知でお伝えすると、現実のバカリズムさんは44歳のおじさんであり、どちらかというと“私”やマキちゃんら若手女子行員が作中、Disっているダメ上司たちに近い存在なのです。それなのに開始1分でバカリズムさんがズボラな20代後半OLに見えてくるから本当に不思議です。
まさかのMX4Dシートで鑑賞
Huluでは4月ドラマ版が全話配信されている本シリーズ(一部の話数は4月13日で配信終了)。通勤時、満員電車の憂鬱度と不快度を少しでも下げるために車内で「架空OL日記」のドラマ版をヘビロテしている筆者は、東宝から送られてくる株主優待券(1回800円で映画が見られる券)を握りしめ、公開日に劇場へ足を運ぶ予定でした。しかし当日に絶望的な残業が発生したため断念。その後なんやかんやあって3月11日水曜日17時の回を予約することになりました。
当日、世間を騒がせているCOVID-19関連の影響で劇場はきっとガラガラなんだろうなと思っていたら、座席は混みこみのほぼ満席。そういえば水曜日はレディースデイで、ちょっとお得に映画が見られるのでした。せっかくなので私も株主優待券をそっと財布にしまってレディース料金1200円で鑑賞することにしました。
上映10分前に劇場に着いてまず驚いたのは椅子の良さ。普段はTOHOシネマズ渋谷をよく利用しているのですが、新宿は数えるほど。「TOHOシネマズ新宿のイスはものすごく良いのかね?」なんて思っていたのですが、よくよく見たらMX4Dシートでした。上映延期になる作品が相次いでいることなどからMX4Dシートのスクリーンが割り当てられたのでしょうか。いずれにせよ、レディース料金だし、ふかふかのシートだったし、始まる前から得をした気分です。
ドラマ→映画、映画→ドラマ、どの順番で見ても面白い
本編は早朝、ベッドに横になっている私を携帯のアラームがけたたましく起こそうとしているところからスタート。しかし冬の朝は強敵で、私は6時から5分おきに鳴り響くアラームを止めながら、ベッドに潜んだまま暖房のスイッチを入れたりギリギリの抵抗をみせています。
そうこうして起きたのは6時30分。私は「6時は理想。6時半が現実」と心の中で呟きながら「女の朝はやることが多い」と顔を洗ったりお化粧をしたり、朝ごはんのバナナをかじったりして、自分なりにかなり省略した朝のルーティーンをこなし、なんとか出勤するのでした。
その後も、月曜日の憂鬱感、社食あるある、うざい上司への小さな悪口(言いすぎているように見えるけれども私たちにはこれまでの蓄積がある)、上司のSNS問題、サエちゃんによる善意の漫画全巻一気貸し、酒木さんの「略称は恥ずかしくて言えない問題」、実は犯人私だけど事件など、ドラマ版を見てきた人にとってはある種の“天丼”のような展開が約2時間にわたって繰り広げられます。
そのため、劇場では1つ1つのエピソードのとっかかりで次のセリフや今後の展開を予想して噴き出している人の姿も少なくありませんでした。それぞれのエピソードは大げさなものではありませんが、映画の本編終盤では、ドラマのエンディングで酒木さんが披露していた太極拳が登場したりととにかく細部までクスッと笑わせてくれる演出が盛りだくさんです。
映画単体でも楽しめる作品ではありますが、ドラマを見てから映画を見ても、映画を見てからドラマを見ても面白いので、筆者はセットで鑑賞することをオススメします。
まさかこれはパラレルワールドなのか、筆者のプライスレスな邪推
ここからは完全な余談なので読み飛ばして頂いても構わないのですが、前述の通りドラマ版を鬼のような回数見てきた筆者。実は冒頭のシーンで非常に大きな衝撃を受けていました。
私のベッドの形がドラマ版と違っていたのです。
ドラマ版では毎朝、ベッドに伏したまま手探りでカーテンを開けるほどのズボラぶりを見せていた私ですが、本作ではベッドが新しいものに変わっておりその手は通用しない様子。
さらに私が銀行へ出勤したところで2度目の衝撃。英会話を習っていることが発覚したことから、女子行員に裏で“世界の柏原(通称:セカシ)”と呼ばれていた上司の柏原(演:帆足健志さん)やコーヒーや紅茶を何度も水で薄めるなどの行動が女子行員にドン引きされ、どんな話題でも彼の悪口に着陸することから“羽田”と不名誉なあだ名がつけられていた副支店長(演:赤山健太さん)といったおなじみの顔ぶれがいなくなっていたのです。
代わりに登場してきたのが、入行20年目で仕事はできるが感情の波が激しい小野寺課長(演:坂井真紀さん)や、韓国からの海外採用で入行した新人のソヨン(演:シム・ウンギョンさん)といった新たな面々でした。
この時点で私の脳内では「ひょっとしてドラマと映画では世界線が違うのでは」という謎の仮説が渦巻き始めました。というのも、ドラマ版の最終回では男性芸人としてのバカリズムさんが登場し、マキちゃんや小峰さまといった女子行員は実在しているものの、あくまでもこの作品がバカリズムさんの脳内で勝手に展開されていた“架空OL日記”であったことを視聴者に思い起こさせていたからです。
つまりこの映画はバカリズムさんの脳内で展開されている新たな“架空OL日記”なのではないか……。別の世界線の架空OL日記……などと爆笑しながら邪推しまくっていたのですが、鑑賞後、長年の習慣で映画を観終わった後にパンフレットを購入したところ謎が解けました。映画版はドラマから2年後のみさと銀行が舞台になっているのだそうです。
約2時間の邪推の無駄さ、プライスレス。
架空OL日記を見れば小さいことはどうでも良くなる
映画版を見終わり、パンフレットを熟読した筆者はあらためてなぜこんなにこの作品に多くの人がハマっているんだろうと冷静に考え始めました。
ある意味、殺人事件も起こらなければ、イケメンが出てくるわけでもない。ただ主人公が起きて、出勤して、更衣室でしゃべって、仕事して、社食でとびきりおいしいわけではない普通の昼食を食べて、また仕事して、ちょっと上司の悪口を言ったりして、帰りにアトレに寄ったり、ジムへ行ったりして帰って寝る――架空OL日記とはそういうお話なのです。
ただただOLの普通の日常を描いた作品。それがなぜこうも楽しく、愛おしいのか。
それはまず登場するキャラクターに“嫌な奴”がいないということが大きいかもしれません。もちろんすごく忙しい時期に休暇を取る上司など「なんだこいつ」と思う人物はいるのですが、とんでもなく悪人というほどのレベルではなく、ちょっとイラッとするぐらいのちょうど良いむかつき度で収まっているのです。
特に印象に残ったのが「ただ朝礼でいつもと違う場所に立っていた」という上司のささいな行動に悪口を言い始めていた私とマキちゃんが後輩のサエちゃんをいさめるシーンです。
私「サエちゃんさぁ、ここは一基(いっき/上司)が先ってことにしてもらえないかなぁ」
サエ「なんでですか?」
私「もううちら走り出しちゃってるから」
サエ「でも私が先にあそこに……」
マキ「サエちゃん、そこはもういいんだよ」
私「今のうちらに必要なのは真実じゃなくて矛先だからさ」
サエ「矛先?」
マキ「サエちゃんも普段一基にめんどくさいこと押し付けられたりするでしょう?」
サエ「それはそうですね」
マキ「ここはもう一基が先ってことにしとこう」
私「そんでさ一緒にイラつこうよ(小声)。ね?」
サエ「分かりました、一基が先にします!」
上司が別の場所に立つ要因を作っていたのは、実は後輩のサエちゃんだったのですが、あくまでも大切なのは一時の“矛先”であり、真実ではないと納得した3人はその後も「普段コーヒーカップを洗わない」「コピー機のインクを変えない」といった上司の行動を言い合って共感していきます。
こうした行動はある意味女性コミュニティーでは大切なもの。行員同士の悪口自体はそこまで陰湿なものではなく、あくまでもターゲットを“上司”(同僚や後輩のことは言わない)と決めてとにかく“共感しあう事”で結束力を生み出しているのです。そこに視聴者も共感できるからこそ、作品へ没頭できるのでしょう。
次にキャストが行員にしか見えない自然さ。主人公のバカリズムさんが女性に見えてくる不思議さについては、バカリズムさんの芝居力はもちろんのこと、衣装の力もあるのではと今回映画版を初めて見て気付きました。
パンフレットによると、私の私服衣装についてはユニセックスだけれども、ちょっと女性らしさを意識したものだといい、体のラインが出ないようにオーバーサイズの物を選んでいるのだそうです。こうしたスタッフによる細かいディティールの積み重ねがリアリティーを生み出しているのでしょう。
またマキちゃん、サエちゃん、小峰さまといった面々も「ひょっとしてこれはアドリブなのでは」と思えるほど自然な芝居を展開しており、サエちゃんを演じた佐藤玲さんが「たまにヒゲをそっているところを見ると、“男性だったのか!”と気付く」というほど、衣装を着用した状態のバカリズムさんを女性行員として受け入れていたのも作品にとって大きなプラスだったようです。
最後に映画化ならではの派手さを徹底的に排除した演出。住田崇監督は「映画だからといって仰々しくしない」という考え方をバカリズムさんとの共通認識として映画化制作に臨んだと明かしており、ドラマ版を見続けてきた人にとっては最初から最後まで絶妙な温度感で、自分も私やマキちゃんら女子行員たちの一員なのではないかと錯覚するほどの心地よさを感じました。
この心地よさこそが架空OL日記の最大の魅力。吉澤嘉代子さんが歌うエンディングテーマ「月曜日戦争」が大きなスクリーンで流れ始めたときには、「もう終わってしまうのか……」と筆者もしんみり。本編のストーリーも相まってちょっとウルウルしてきたところに、吉澤さんによるもう一押しのサプライズ演出と狂気のラストシーンに畳みかけられ、すっかりやられてしまいました。
映画「架空OL日記」は優しい世界で本質を突き刺しまくってくる、期待を裏切らない名作でした。
充実した気持ちで歩き始めた帰り道。筆者はまた私やマキちゃんやサエちゃん、小峰さまや酒木さんに会えたらいいなと思いつつ、満員電車でそっとHuluを起動しました。
(Kikka)
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