いじめによる死亡事件を描く映画「許された子どもたち」が必見の地獄めぐりである「5つ」の理由(2/3 ページ)
“地獄めぐりエンターテインメント”として文句なしに面白く、“誰もが加害者になる恐怖”を描いた作品としても一級品の映画「許された子どもたち」を解説する。
さらに、少年犯罪への社会的なまなざしが改められるきっかけにもなった“川崎市中1男子生徒殺害事件”も、本作に大きな影響を与えたようだ。この事件では、世間が加害者家族に過剰なバッシングを浴びせプライバシーの侵害が行われ、必要以上の献花などがされた一方、被害者家族は決してそうしたことを望んではいなかったという。
この他にも、劇中の「お前さぁ、人の幸せを奪っておいて、自分だけ幸せになるつもりか?」というセリフは“山形マット死事件”の取り調べの際に警察が加害者少年に言った言葉が基だ。「死んだお子さんの名前、ご存じないんですか?」というセリフも、“神戸連続児童殺傷事件”おいて警察官から質問された加害少年の父親が、被害者の名前を答えられなかったというエピソードを参照していたりもする。
これら実際の事件における種々の要素が、この生き地獄のリアリズムに大きく貢献していることは間違いない。エンドロールでズラリと並ぶ参考文献の多さからも、その“実際の事件をしっかり見つめる”作り手の矜持は伝わることだろう。
3:誰もが加害者側になり得る事実と恐怖を描く
この「許された子どもたち」は、いじめによる死亡事件における加害者側の視点に立った作品だ。これにより、誰しもが加害者側になる可能性があるという恐怖を描いていることも、特筆すべきだろう。
ここでいう加害者とは、いじめにより同級生を殺してしまった少年本人だけに限らない。ネットで批判を超えたバッシングを浴びせる者たち、少年の転校先で彼の正体を探ろうとする同級生、そして息子のいじめによる殺人の罪を認めようとしなかった母親も、加害者と言えるのではないか。
何しろ、この母親は息子が過去にいじめの被害者側であったという事実を提示した上で、「私の息子は人の心の痛みが分かります。だから、絶対にいじめなんてしません!」と断言するのだ。加害者であるという可能性そのものを、完全に否定してしまうのある。
これらが、ある種の“正義感”によるものであった、ということも恐ろしい。ネットで誹謗中傷を書き込む者や、転校先の同級生は「裁かれないとおかしいだろ」という考えの元で少年を追い詰めようとしていた。少年の母親は“息子への妄信的な愛情”があったからこそ、その裁きを受け入れようとはしなかったのだろう。
内藤瑛亮監督は、「人は被害者であることは比較的容易に受け入れられるが、自分が加害者であるということは認めづらい」とも語っている。前述した正義感があれば、さらに加害者であると認めるのは難しいのではないか、そのことが“謝る”という手段を逃すきっかけになり、さらなる不幸にもつながるのではないか……。本作は、その普遍的な事実を、苛烈な描写をもって教えてくれるのである。
また、本作は「許された子ども“たち”」というタイトルでありながら、いじめによる死亡事件の主犯となった少年ただ1人の物語に焦点を絞っており、他の加害少年はわずかしか描写されない。にもかかわらず、なぜ“たち”とタイトルにあるのか……それは“許された子ども”に、この映画を見ている観客の子どもたちも含まれることもあり得る、誰もが加害者になる可能性がある、と暗に示されているからではないだろうか。その恐怖は、誰にでも共通であるはずだ。
4:自主製作だからこそ、リアル10代の役者の熱演が生まれた
本作は8年の歳月をかけて製作された自主製作映画だ。一時は商業映画としての企画も検討されたものの、20代の人気俳優を起用してはどうか、もっとエンターテインメント要素を打ち出してはどうか、といった案が持ち出され、内藤瑛亮監督も折衷案を検討したものの、やはり「譲れないものがある」として、結局は自主製作になったという経緯がある。
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