「名優トム・ハンクス」を生んだ映画「フィラデルフィア」 その裏に秘められた「戦い」とは……(2024年米大統領選挙を映画で予習)(2/3 ページ)
米ニュージャージー州在住の冷泉彰彦さんが解説。
デンゼル・ワシントンが「嫌な人物」を演じた意味
エイズと世代の問題が前面に出た本作であるが、その奥にはもう1つの戦いが埋め込まれていた。準主役とも言うべきミラー弁護士を演じたデンゼル・ワシントンによる人種をめぐる戦いである。ワシントンはハンクスよりも2歳年長であるだけでなく、映画俳優としてのキャリアでも一歩先行していた。1989年の時点で「グローリー」(エド・ズイック監督)の北軍兵士トリップの役でオスカーの助演男優賞を獲得し、問題作とも言われた「マルコムX」(スパイク・リー監督)でも主演を務めるなど、評価を固めていたからだ。
だが、ワシントンにとって本作は全く新しい挑戦となっていた。確かに、黒人俳優の地位は一歩一歩改善の流れにあり、他ならぬワシントンはその象徴であった。しかし、役柄という意味ではまだまだ黒人俳優の自由度は限られていた。例えば、「グローリー」の役は究極の善人であったし、「マルコムX」はアメリカの主流派の歴史では反逆者であっても、黒人の歴史ではヒーローであった。
ところが、本作でワシントンの演じたミラー弁護士は、物語の当初はエイズへの偏見を隠さない「嫌な人物」として登場する。その上で、物語の進行に連れて次第にベケットの理解者へと変わり、最後はその訴訟を支えてゆく。もちろん、映画の語り口としてはこうした「キャラクターの成長」は必要であり、成功すればスクリーン上の人物には生命が吹き込まれる。
けれども、1993年の時点で黒人俳優が「その理解者であるべき人権派の理想」に反して、エイズへの偏見を持つ人物として登場するのは、明らかなリスクであった。まだまだ保守派の激しい差別の視線が残る時代にあって、黒人俳優は当面は善人を演じることで自分を守りながら地位の向上を目指す、そんな制約を自他に課すしかない、そう思われていたのである。
ワシントンはこの難役に挑み、見事に演じ切った。本作でベケットがエモーションの中核ならば、ワシントンの演じたミラーはストーリーの中核であり、観客の心情移入も受け止める役回りもある。その演技は、本作の成功に大きく貢献した。その意味で、ワシントンがミラーの役を演じきったことは、彼自身のキャリアだけでなく、黒人俳優の地位向上という点でも大きな意味を持ったのだ。
デンゼル・ワシントン、ジョナサン・デミ監督のその後
だが、その先のキャリアは一気に頂点に上り詰めた主演のハンクスとは違って、助演のワシントン、監督のデミ、それぞれに紆余曲折があった。ワシントンのキャリアは現在に至るまで順風満帆に見えるが、その中にはさらに大きなハードルがあった。黒人俳優として究極の悪役を演じきるという課題だ。
現代ではまず問題はないし、ワシントンもオスカーの主演男優賞を獲得した「トレーニング デイ」(アントワーン・フークア監督)などで、悪役として数多くの名演を残している。しかし、やはりワシントンはその点では開拓者であり、リスクを取ってステップを踏まざるを得なかった。
別の意味で苦しんだのは監督のデミである。「羊たちの沈黙」「フィラデルフィア」の2作で評価を確立したデミは、女優からテレビ司会者兼プロデューサーに転じて、全米の人気者となっていたオプラ・ウィンフリーと組んで、やがて大作映画に取り組んでいった。ノーベル文学賞を受賞した黒人作家トニ・モリソンの代表作『愛されし者』の映画化である。
奴隷制時代のアメリカを舞台に、究極のミステリーであり究極の悲劇を文章化したモリソン作品を大変な熱量とともに映像化した本作は、個人的にはジョナサン・デミの最高傑作であるばかりか、1990年代のハリウッドのベストだと思う。「羊たちの沈黙」「フィラデルフィア」でもカメラを回していた撮影監督のタク・フジモトも、ここでは寒色だけでなく、暖色も駆使して素晴らしい画を撮っているし、何よりも主演したウィンフリーの演技は神がかっていた。
ところが、この「愛されし者」は興行的には完全に失敗であった。8000万ドル(当時の水準で70億円程度)を投じたにもかかわらず、興行収入は約2300万ドル(同20億円程度)にとどまった。ウィンフリーとデミのコンビを買ったディズニー・ブエナビスタは、あっという間に興行を打ち切り、これに抗議したデミには激しいバッシングを浴びせたのである。
失敗の原因は説明がつく。奴隷制と人種差別というアメリカの最暗部に切り込んだテーマ設定、ある衝撃的な謎を埋め込み、それが結末近くになるまで巧妙に秘められるという構造は、1998年のハリウッド大作としては、いかにも「難し過ぎた」のである。170分という長尺も観客を遠ざけた。
私は1998年10月のある日、近所のショッピングモールに併設された小さな映画館で、1週間しか続かなかった劇場公開の3日目ぐらいに「愛されし者」を見に行ったが、観客はまばらであり、そのうちの数名は途中で出て行ってしまっていた。けれども、見終えた私は衝撃で椅子から立てないほど打ちのめされ、デミの演出のすごさに圧倒されたのを覚えている。
デミに対するディズニーの報復は執拗であり、フィーチャー作品へのカムバックには数年の月日を要した。その後のデミは何作かの佳作を撮り、生涯不遇とまではいなかったが、「羊たちの沈黙」や「フィラデルフィア」で得たような栄光の座には二度と戻ることはなかった。2017年に73歳でこの世を去っている。
少し遠回りしたが、そんなデミの戦い続けた人生を確認した上で、あらためて「フィラデルフィア」に向かい合うと、映像に秘められた熱量は今でも色あせていないと気づく。確かに、エイズや同性愛への偏見は歴史の一部になりつつある。だが、本作は間違いなく、そのように歴史を動かした原動力になったし、その戦いのエネルギーは今でも私たちを突き動かすだけの鮮度を保っている。
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