これを読めば「ゴジラ -1.0」の背景が分かる ~終戦時における旧海軍艦艇動向~(2/3 ページ)
舞台となった終戦後の日本での旧海軍の状況などについてまとめてみた。
海軍の生き残りが活躍した戦後復興
終戦後、外洋航海に耐えられると評価された艦は、艦載砲や電波兵器などを下ろして船室を増設する改装工事を施したうえで、外地に取り残されていた日本人を日本本土に帰還させる特別輸送艦として終戦直後の1945年10月から航海を再開している。
先に上げた大型艦船では鳳翔、葛城、酒匂、鹿島が特別輸送艦となった他、雪風、響、松型駆逐艦の18隻、さらに海防艦や掃海艇、駆潜艇、さらには大正時代の初期に建造された旧式の敷設特務艇「測天型」の残存艇などなど多くの艦船が参加した(ただし、測天型の行動海域は佐世保、舞鶴、八戸、馬公、佐伯、大牟田、台湾などで関東近海では確認されていない)。この特別輸送艦(そしてそれ以前からの復員兵帰還輸送も含めて)としての行動は終戦直後の1945年9月から1946年第2四半期~第3四半期のピークを経て1948年夏ごろまで続いた。
終戦時転覆もしくは着底して“実質に沈没”していた艦や、特別輸送艦としての外洋航海に耐えられないほど状態が悪かった艦は1946年初頭から解体に着手している。先に挙げた大型艦艇では、隼鷹、龍鳳も航行できるものの損耗の程度がひどいため解体されている。
なお、長門と酒匂は外洋航海が可能とされながらも特別輸送艦にはされなかった。この2隻は米国がビキニ環礁で実施した原爆実験プロジェクト「クロスロード作戦」に標的艦として供され、酒匂は1946年7月1日に実施された空中爆発実験で沈没し、長門も同年7月25日に実施の水中爆発実験で船体に亀裂が入り4日後に沈没している。
また、シンガポールで航行不能のまま係留されていた妙高と高雄は、修理をした上で特別輸送艦として使用する計画もあったが、最終的には海没処分することになり、船尾が切断されていた妙高は1946年7月8日に、比較的損傷の程度が軽かった高雄も同年10月29日にマラッカ海峡の同じ海域で沈められた。
特別輸送艦任務が終了した艦船は、多くの大型艦が解体作業に着手し、ほとんどが1947年から1948年にかけて姿を消していった。また、潜水艦と駆逐艦をはじめとする小型艦艇は1948年8月から賠償艦として連合国に引き渡されている。雪風は中華民国(台湾)に、響はソビエト連邦(現ロシア)に引き渡されてそれぞれ当国海軍で長きにわたって活動していた。
これらとは別に、戦争中からの作業に従事し続けたのが掃海艦艇による部隊だ。連合軍が日本港湾や航路に敷設した機雷の除去は小型の掃海特務艇、駆潜特務艇、哨戒特務艇によって戦後も作業を継続していた。その作業は日本海軍の解体後は復員庁が引き継ぎ、その後運輸省に移管されて海上保安庁の発足を経て、現代にいたっても海上自衛隊によって継続している。
敷島は“トップガン”かもしれない
以上、ゴジラ -1.0には関係なく、終戦直後における日本海軍の艦船動向を紹介してきた。ここで、ゴジラ -1.0の映像に関連した解説を1点だけ(とはいっても予告編で確認できる情報にとどめる)。
登場人物の敷島浩一が身に着けている名札には「六○一空」の記載が確認できる。六○一空=第六○一海軍航空隊は航空母艦に配属する航空隊で、その所属搭乗員には高い技量が求められるため、海軍航空隊のトップパイロットが選抜される。
同隊は1944年2月に開隊し、6月のマリアナ沖海戦に参加するも大きな損害を受け、その後は基地航空隊として硫黄島攻撃、沖縄戦、関東防空に従事する。1945年2月の硫黄島攻撃では特別攻撃隊の第二御楯隊として体当たり攻撃を実施している(ただし、零戦で構成する戦闘第三一○飛行隊は直掩機として参加している)。
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