手品に興味がなくても、たまたま見たテレビ番組で手品をしていたり、会社や学校の関係者から手品を見せられたり、という経験は多くのひとがしていると思います。そんなとき、「この手品、どういう種なんだろう?」と思ったり、「その手品の種、教えてよ」と言ったりする、という経験も、同様にしているのではないでしょうか。
手品にとって、種は命のようなものです。種の分かっている手品は、既に手品ではありません。
手品を見る側の「種を知りたい」という欲求と、手品をする側の「種は明かせない」という意識は、手品という芸能にとって、1つのジレンマとして常に問題になってきました。
この記事ではそのジレンマ、種明かしの問題について解説します。
手品の種を見破ればタダ!
先日も、こういうレストランのニュースがありました。
- 見破ればタダ、神戸にマジックレストラン(Lmaga.jp)
この記事に対して、アマチュアの手品人(手品をするひとのことです)界隈では、あまり好意的には受け入れられていないように感じられました。わたし自身、「品がない」と思いました。というよりも、嫌悪感に近いものを感じました。
おそらく、この「マジックレストラン」の顧客と(アマチュア)手品人は別の客層で、つまりわたしがどう感じようと何を言おうと、当該レストランの方は何の痛痒も感じないと思います。それに、こういった演出を「面白い」と感じる非手品人は相当数いるであろう、ということも理解はできます。
それよりも興味深いのは、わたし自身がこういった演出に「品がない」と感じたことです。この感覚はあくまでも個人的なものではありますが、この感覚を共有するひとも一定数いるであろう、という気がします。
というのも、この「品のなさ」はつまるところ、「手品の種は秘するべきものである」という、手品人のポリシーに反するものであるからです。そのため、1人の手品人として、「見破ればタダ」という演出に忌避感を禁じ得ないのです。
そして、この「手品の種は秘するべきものである」、つまり「種明かしをしてはいけない」という問題は古くて新しい問題として、常に手品人の前に立ちはだかってきたのでした。
種明かし推奨派の弁明
手品人が種明かしをするときには、多く「手品界の発展のため」という大義名分を掲げます。
例えば、「古い手品ばかりを誰もが演じるため、これを一般に暴露することで演じられなくする。そうすれば、新しい手品が作られるだろう」というものです。
しかしながら、古典落語やクラシック音楽が繰り返し演じられるのと同様に、名作と呼ばれる手品の価値が、時間の経過とともに損なわれることはありません。また、そういった名作をもとにした新たな作品が生まれることも少なくありません。ですから、古い手品の種を明かすことは、新しい手品を殺すのと同義です。
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