空蝉の身をかへてける木のもとに
なほ人がらのなつかしきかな
<『源氏物語』帚木三帖第2帖/紫式部>
序
「心配するな。どこにも行きはしない」
それが最後の言葉だった。直後、爆発音が聞こえた。
遺体は結局、見つからなかった。今ではその顔さえ思いだせない。
――思い出せない、はずだった。
I
告解部屋に、声が響いた。
「最愛の娘が死んだのです」
鉄柵を握る手が震えている。
その傷だらけの手が、男の属性をあらわしている。
明らかに、闇の世界の住人だ。だが、闇の世界の住人というだけで、大切なものが壊れるわけでは決してない。格差社会の最底辺に位置するこの場所では、誰もが何かしらの傷を負っている。
そしてその傷は、必ずしも醜いものとは限らないのだ。
「娘は婚約間近でした」
男は語り始めた。
「それにもかかわらず式の前日に失踪したのです」
翌日、遺体となって発見された。第一発見者は彼女の婚約相手だった。
メルクリウス社に務める、将来有望な青年だという。
「それはさぞおつらかったでしょう」
機械的な声で、タイプRが答えた。
「ええ……気づいた時には手遅れでした」
われわれは、あくまでも聞き役に徹するのが原則だ。
相談者の苦悩、葛藤、罪悪感……それらを言葉にして聞くことによって、相談者自身が、自然と痛みを浄化することを目的としている。
典型的なフロイト派のやり方だ。
精神分析の手法には、主にフロイト派とエリクソン派がある。前者が、受け身で相談者の話を聞くのに対して、後者は相談者に介入することによって、精神の治癒を目指す。だが、ミルトン・エリクソンを創始とするそれは、ある種の才能が要求されるため、定式化が難しく、従って、フロイト派が、現在では圧倒的に主流となる。
感情を持たないアンドロイドの役割は主に前者だ。
「遅刻は本当につらいですよね」
とはいえ生後7カ月。ときどきおかしな事を言う。
「ええ。タイミングの遅れは致命的です。もっと早くに気づいてやればよかった」
だが、告解者の男は気づかないようだ。
「親馬鹿だと思われるかも知れませんが、とても美しい子でした」
「さぞおつらかったでしょう」
「ええ」
「流石につらいですよね」
「え、ええ……」
「流石につらすぎますよね」
「うう……」
男は泣き始めた。苦悩して告解に来た男を追いつめてどうするのだ。
僕は背後にあるゲーム機の筐体の電源を入れ、言葉をつないだ。
「人生には取り戻せないものもあります」
「それでも私は取り戻したいのです」
「取り戻す……? どういうことですか?」
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