家族の心理をかなり単純化した形で要約したが、どれだけ複雑な心理が入り交じる展開であるかはご想像いただけるだろう。
何しろ、息子が加害者であり殺人犯と断定されれば、家族は罪の意識を背負うだけでなく、億単位の賠償金を払うことになり、父は一級建築士としての仕事を失い、娘は望み通りの進学も果たせなくなる。少なくとも以前のような生活には戻れない、「この後も地獄が続く」ことが確定的になるのだ。
しかし、息子が被害者であり殺されたとなれば、家族にかけられた疑いは晴れ、世間からの憎悪の感情はなくなる。つまり、この家族には「息子は死んでいた方がいい」という、絶対に抱きたくない、恐ろしく非情な感情も生まれかねない状況に陥ってしまう。
劇中では、家族それぞれがそう考えないように、口にしないようにと、必死で虚勢を張っているように見える。しかし、劇中では中学生の妹が、言葉を1つ1つ確かめるように、こう言う。「お兄ちゃん、犯人じゃない方がいい……犯人だったら、困る」と。
それはもちろん、心からの願いではあるだろう。だが、裏を返せば、やはり「お兄ちゃんは被害者側で殺されていた方が私の人生にとってはいい」と思っている、ということではないか。それが決して特殊な考えではないということ、この物語を追っている観客が「そうだよな……」と同調してしまうことも、また恐ろしい。
劇中では、雑誌記者が「どちらに転んでも最悪だが……」と言いつつ、母に取材の約束を取り付けるシーンがある。この言葉通り、息子が殺人犯になっても最悪、息子が殺されていても最悪だ。もちろん、1人の命、それも家族の命は、何よりも重い。「息子が殺人犯であろうが生きていてほしい」と願う母の心情の方が“正しい”と思う方もいるだろう。
だが、その“望み”がかなえば、その後も地獄が続く。そのように観客の心理をとことん揺さぶる過程、最終的に家族に突きつけられるジャッジは、サスペンスとして悪趣味なまでに面白く、下手なホラー映画よりもはるかに怖いのだ。
“絵に描いたような理想の家族”をイメージしたセットが示すもの
本作の舞台は限定的で、その多くが「いかにも優秀な建築士が手掛けた一軒家」の中で展開する。これはほぼセットであり、美術監督の磯見俊裕氏が、ダイニングを中心に、アイランドキッチン、ソファ、仕事場に至るまで、「絵に描いたような理想の家族」をイメージし、俳優もカメラも自由に動けるように空間を生かしてデザインしたのだという。
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