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「地獄が呼んでいる」レビュー 「新感染」監督が描く、恐れと信仰がつくりだす現代の地獄(1/2 ページ)

「新感染」監督の新たな傑作。

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 「イカゲーム」の熱狂冷めやらぬ中、韓国ドラマがまたも快進撃を続けている。NetFlixで11月19日に配信開始された「地獄が呼んでいる」は、瞬く間にその記録を塗り替え、世界で最も視聴されたドラマシリーズとなった。監督は「新感染」シリーズのヨン・サンホだ。

 コーヒーショップの中、笑い合う男女。話題はうわさの宗教家の動画配信、「天使が死期を告げに現れ、その使者が悪人を地獄に落とす」という与太話だ。映像で暴れ回る地獄の使者は、特撮映画の怪人のようだ。なんだこれは、こんな作り物を信じるのか……。時を同じくした店内、スマートフォンに表示された時刻を見ながら何かにおびえる男。鳴り響く地響きと共に、騒然とする店内。空間を切り裂いて彼らの前に訪れた異形は、逃げる男を殴りつけ、振り回し、地獄の業火で焼き尽くす――。

冒頭シーンを抜粋した予告編

 本作の原点は2002年〜2004年に発表された「地獄:二つの生」。監督・脚本等に加え、一部声優をサンホ自身が演じた2編からなる、自主制作アニメーション作品だ。サンホは「新感染」の前日譚「ソウルステーション/パンデミック」でも知られる通り、元はアニメーション出身の監督である。

 「地獄:二つの生」では、地獄の使者と合間みえる平凡なサラリーマンや、告知された天国行きを拒絶する女性を語り手とするなど全体的なストーリーは大幅に異なるものの、根底となる死の「告知」、使者による残虐な地獄送りである「試演」(アニメではよりグロテスク)など、根底となる部分は共通している。

 そののち2019年にこれらの設定を持ち込んだ「地獄」をウェブトゥーンとして連載開始。一連の現象を捜査する刑事、若きカリスマの立ち上げた宗教団体とそれに反する勢力の攻防など、Netflixドラマ版の舞台設定はこちらを元にしている。

 ドラマ版のシーズン1・全6話の物語は名目上刑事、弁護士、映像ディレクターや宗教家などの目線で進むものの、特定の主人公がいるわけではない。本作の主人公は「地獄の存在の明示」という、常識ではあり得ないことが起こってしまった後の社会そのものだ。

 劇中、「告知」を受けた女性の前に現れた地獄の使者とその試演が地上波で生中継されてしまうことで、社会は大きく変容する。陰謀論じみた扱いを受けてきた宗教家たちは力をつけ、「神の裁き」に反対するものには狂信者たちによるネットリンチと、正義の名の下での暴力が待っている。

 善行を積めば天国に行けるという教義にもかかわらず、これらのせいで犯罪の数が減ることはない。禍々しいディストピアの中、「この状況を地獄と呼ぶんじゃないのか」とはあるキャラクターの弁である。

 作中の「今はなんでも動画だから」というセリフを補強するかのように、劇中たびたび映る狂信者のストリーミング配信、ネット検索の急上昇ワード、スマートフォンと目の前にいる「標的」を見比べる街の雑踏。独自の善を持つ顔のない追跡者たちによる攻撃の恐ろしさは昨今世界的な問題となっており、ネット網の発達が著しい韓国でもそれは周知のことだ。ほんの何気ない一瞬の行動で数千万人が敵に回るような状況というのはこの時代において非常にリアルであり、実在の恐怖とリンクする。

 このように、本作で人を死と絶望に追いやるのは“集団によるリンチ”である。地獄の使者が“集団”の最小数である3人で構成されるのも、このキーワードを明確にするためであると、サンホ自身が製作発表会で明かしている。

 アニメーション版があくまでも「告知を受けた人間が感じる、個人的な恐怖の物語」であったのに対し、今回描かれている恐怖の対象は死そのものや地獄行きでなく、他人や社会からの監視、意見を異にする者たちからの強い敵対だ。

 同じく天使を一種の災害として描いたフィクションとしてはテッド・チャンの短編小説「地獄とは神の不在なり」が思い浮かぶが、ヨブ記を起点とし信仰心の本質を問うこちらともテーマはまた異なる。本作はこの現象を通じて現代的な社会の地獄を顕現させる、まさしく人間の恐ろしさそのものに満ちている。

 神を愛するのに思い違いをしてはならない、もし神を愛したいと思うのなら、神の意図がどんなものであっても愛する心構えをすべきである、ということだった。

( テッド・チャン「地獄とは神の不在なり」 ハヤカワ文庫SF『あなたの人生の物語』)

 サンホのこれまでの作品に通じるのは、極限状況に置かれた人間の弱さとその業だ。長編デビュー作「豚の王」は、スクールカースト最下層(「豚」)に喘ぐ3人の少年がエリート層(「犬」)への反逆を目指す物語だが、最終的に彼らをさらなる絶望に突き落とすのは「犬」による苛烈な暴力ではなく、彼ら自身の行動、仲間を信じきれなかった弱さである。

 「フェイク〜我は神なり」(劇場公開タイトル:「我は神なり」)ではダムに沈む村を支配したインチキ宗教を通じて、信仰は弱さの最後の逃げ場であると突きつけながらも、その行き着く果てを最後に救うのもまた信仰であるという皮肉を込めたラストを描いてみせた。


 “地獄への道は善意で舗装されている”とはよくいったもので、サンホの作品には救いのないものが多い。だが人の善そのものを信じていないわけではない。善意は確かに存在する。ただし社会という大きな枠組みの中で、それが勝利を得ることはない。もし得られたとしても、ごくわずかな人々のみが知る、一握りのものにすぎない――。

 こうしたペシミスティックな視点から社会を描いた本作の結末はほぼウェブトゥーン版と同一ながら、異なる非常に大きなクリフハンガーをもって幕を閉じる。サンホは直近のインタビューにて既にシーズン2の存在、同一社会でのユニバース化に意欲をみせ、さらに「新感染」シリーズの次作の構想も語っている。大きな謎と物語の推進力を抱えたまま、物語は続く。彼の描く地獄に今後とも付き合っていきたい。

将来の終わり

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