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高橋利幸氏(高橋名人)インタビュー
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PHOTO '83年に生まれてから,昨年で20周年を迎えた「ファミリーコンピュータ」。家庭用ゲーム機すべてが“ファミコン”と総称され,全国的ブームとなったこの時代,一番有名な子どもたちのヒーローとなっていたのは“高橋名人”ではないだろうか。

“高橋名人”こと高橋利幸氏は,'82年に当時はPCソフト企業だったハドソンに入社,「ファミリーコンピュータ」への参入をその目で見てきた。ファミコン用ソフトの宣伝担当となった'85年には「第1回全国ファミコンキャラバン」で“名人”の称号を確立し,“高橋名人”としての活動を始め,全国キャラバンや雑誌・漫画,ゲームでも活躍したのはご存知の通り。

 また高橋氏は,高校時代からギターを握りはじめ,現在は「宇宙ヤングプレゼンツ 高橋名人のBugってナイト」などでその腕を披露していることも有名な話。クラシックギター,フォークギター,エレキギター,果てはマンドリンまで,さまざまな弦楽器に親しんでいるミュージシャンでもある。

 今回,SBGではこの高橋名人に,ファミコン当時のお話やゲームミュージックについてお話をいただく機会を頂戴した。ファミコン参入当時の思い出から,今のゲームミュージックに至るまで,さまざまなお話を聴くことができたぞ。

Q:就職にハドソンを選んだ理由はなんだったんですか?

理由はいたってシンプルですよ(笑)。ハドソンの札幌の営業所が自宅の近くだったから(笑)。'82年当時は,電波新聞のマイコンとかベーシックマガジンに広告が載っていたんですよ。それを見て「(営業所は)高校行く途中じゃん」と決めちゃったわけです。

Q:じゃあ,すぐに宣伝には入られなかったんですね?

一番最初は営業で,4日目から東京に行かされました。ウチのおばあちゃんが「孫が連れてかれちゃって……」ってNHKの番組で言っていたことがありますよ。

 一年後の'83年には宣伝に入りました。

Q:ハドソンがファミコンを出されたのはそれからだったんすね。

ハドソンがファミコンの市場に入ったきっかけを説明すると,'84年の6月に任天堂からOEMでファミリーベーシックっていう商品が出たんですが,これが実はヒューベーシックっていう,いわゆるハドソンベーシックのパソコンだったんですね。これがきっかけでまずハドソンが任天堂の市場を知った。

それでファミコンソフトを出すことになったわけですが,'83年の12月にいろんなソフトハウスさんの社長が集まった忘年会で全員から「おもちゃ入ってどうすんのよ」っていう感じで叩かれましたね〜。

実際,あのころは年間で20億円ぐらいの売り上げだったんですが,ROMカセットを購入した時点で年間利益がマイナス,売れないと本当に倒産……。という切実な賭けでした。今の会長と社長が,「これが売れないとうち倒産だけどいいかぁ?」「いいんじゃないですか? ぼくは何をしようかな,八百屋でもやるかな」と言い合いをしたこともあります(笑)。

Q:その甲斐あってファミコンは見事に化けた。発売後の対応は大変だったんじゃないですか?

'84年7月20日に「ナッツ&ミルク」と「ロードランナー」を出しました。そして発売後の土日明けの月曜日には電話が「どこで買えるの?」ってジャンジャン鳴ってましたね。でも,土日で在庫が本当にゼロになってしまったんで「次は3カ月後です」って言ったらとにかく怒られました。その5カ月後ぐらいにはほかのソフトハウスさんもファミコンに参入していきましたね。

PHOTOQ:そこで「名人」になったのはなにがきっかけだったんですか?

当時は宣伝マンがトップと私を含めて3人しかいない。PCゲームも作っていたから,自然にファミコンは僕が担当になりました。それでデモンストレーションを子どもの前でしろ,と言われたので,「チャンピオンシップロードランナー」のデモを1000人の子どもの前でやりました。

でも実は会場でタイミングが悪くて,当時は失敗しちゃったんですよ。3回目に頑張ったらようやく成功したんですが,これがウケて「うぉぉぉぉお!」って声があがったんです。これはイケル! と思って,面を出すためのパスワード入力を後ろ手で入力したら「おぉ,コントローラ見てねぇよ!」って驚かれてこれまた盛り上がりました。

それでイベント終了後に飲んでいたときに,専務が「お疲れさま,良かったよ。これ全国でやったら面白いよね」って言ったんです。まさかこれが現実になるとは思いませんでしたけど……(笑)。

Q:それであのキャラバンにつながるわけですか。いろいろな場所で大会を実施されましたが,なにか思い出はありますか?

場所はチェーン店を狙いましたね。当時はダイエーさんに頼んで,屋上でもどこでもいいので場所作ってください,って頼みました。

スケジュールは地獄でした。朝6時におきて,7時から10時まで会場で設営して,10時半に1部がスタート,12時半に決勝,13時から午後の部,14時ぐらいに終わって18時ぐらいに片づけ終了。さらに次の会場に移動して反省会して,23時ぐらいに寝て……いや,飲みに行ってから1時ぐらいに寝て,6時に起きて……という感じ。さすがに辛かったです。

Q:当時は毛利名人もいらっしゃましたよね? 毛利名人が生まれた秘話とかありますか?

毛利君と会ったのはマイコンショーでした。当時,彼はファミコンの同人誌を作ってたんで,「君,ゲーム上手い? ちょっとやってみぃ? ふーん。来週火曜日ハドソンこない?」みたいな(笑)。ハドソンに来たら「夏休みに何かある? あの,ゲーム大会するんだけど,司会やってみない?」って引きずり込みました。それで毛利名人誕生です(笑)。

Q:そうだったんですか。「スターソルジャー」などいろいろなソフトでキャラバンをやられてましたよね。音楽も忘れられないんじゃないですか?

すごかったですよ。キャラバンって,午前が250名,午後が250名の大会で,1回10人でやるんですが,1日50回以上スターソルジャーのオープニングを聴くことになる。決勝であと2回だから,全部で1日52回です。それが42日間のうちの36日間,夏休みの間だけで1800回も聴くんですよ。なにかあるごとに「タンータ……」って呟いてましたよ(笑)。体の一部かと思うくらい。次のページへ

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