「これで,しばらくお別れなのかな」
雪が降ってもおかしくなさそうな,寒い夜だった。
石畳の地面を,時折立っている街灯が照らしている。
その明かりのすぐ下で立ち止まり,アリエッタはそう言った。
寂しそうな,彼女らしい弱々しい声だった。
二人の間を縫うように,冷たい風が吹く。
僕はマフラーを首に巻き直してから,彼女の言葉を肯定する。
「……そうだね。明日には列車に乗って,行かないとね」
「そっか」
どちらにとっても,それは酷く分かり切ったことだった。
もう,何ヶ月も前からその話を繰り返していたし,初めは二人ともそのことで喜んだりもした。
それが,一日一日経つに連れ,次第に鬱屈した気分に変わり,
今では,その時の名残さえも感じ取れないでいる。
「そっか……明日か」
もう一度アルは呟いて,それから僕の首に手を回した。
その華奢な身体をそっと抱きしめて,彼女の両方の頬に軽くキスをする。
アルはくすぐったそうに小さな声をあげて,それから身体の力を抜いた。
初めてこうしてアルを抱きしめた時のことを,今でも僕は,はっきりと覚えている。
心地よい疲労感に包まれながら,僕はトルティニタと一緒に天井を眺めていた。
安物のパイプ椅子がぎしぎしいうくらいに身体を預け,二人して大きくため息をつく。
「疲れたね……クリス」
「うん,疲れた」
窓から差し込む光が,赤く染まっている。
お昼頃に先生が用事があると言って出かけてから,もうそんなに時間が経ったらしい。
音楽室の,この独特の匂いの中で,今度は大きく息を吸う。
子供の頃から通い続けているこの音楽教室と,
あと数ヶ月もしたらお別れになるのかと思うと,途端に寂しさがこみ上げてきた。
僕とトルタは,この街を離れてピオーヴァ音楽学院に通うために。
アルは,この街の名物にもなっているパン屋さんに勤めるために。
中等学校を卒業して,その先に進むことのできる生徒は,この街では珍しい。
その中でも,僕とトルタはさらに特別だった。
国内でも有数の設備を誇り,著名な音楽家を多く輩出している,ピオーヴァ音楽学院。
その門は狭く,受験する生徒の数に比べ,入れる人数はほんの一握りといっても良かった。
トルタはそれをちゃんと実力で勝ち取ったんだけど,残念ながら僕は,ほとんど運だけで通過してしまったようなものだ。
魔導奏器フォルテール。名前だけ聞くとなんだか偉そうなこの楽器を演奏できる才能を,僕がたまたまもっていただけのことだった。
上を向いたまま,すぐ側に置いてあるフォルテールの鍵盤に指をかけると,
『ぽへー』というなんとも気の抜けるような音がした。
「……なにそれ」
トルタが,あきれたような声で言う。
「ちょっと触ってみただけ。弾くつもりはなかったんだけどね」
フォルテールは,弾く人を選ぶという。
魔力のない人間には,音すら出すこともできないそうだ。
周りはそれを才能だと言うんだけど,はっきりいってその自覚はなかった。
今よりもずっと昔,世界に魔法が満ちあふれていた頃。
今では歴史の教科書や小説にしか載っていないような,遠い世界のような話。
人々は皆魔力をもっていて,魔法を自由に使いこなし,豊かな暮らしを営んでいたらしい。
ある時,教科書には様々な説が載っているけど,本当のところはよくわかっていないなんらかの理由で,人々は魔力を失なった。
そして長い長い年月をかけ,代わりに科学がその穴を埋めていった。
今では,蒸気の力で列車が走り,ガソリンで車が走っている。
その当時に比べて,今が暮らしにくくなったとは,僕には到底思えない。
そんな昔から残っている楽器がフォルテールであり,時折生まれる魔力をもった人間のみが,この楽器を弾くことができた。
そんな中の一人が僕で,それは生まれつきというか,本当に確率の問題でしかない。
もっとも,それも数万人に一人と言われていて,実際にこの国には,数百人以上ものフォルテールを弾ける人間がいる。
結構高い確率と言えるだろう。ただそのフォルテールの音色は,自分で言うのもなんだけど,ちょっとしたものだと思う。
音楽に携わる者の多くが憧れ,魔力をもった人間のほとんどがフォルテール奏者の道を選ぶほどだ。
そして僕も,その中の一人だった。
そしてこの国では,フォルテールを中心とする音楽という文化自体を,誇るところとしている。
だから魔法の才をもつ者は優遇され,そのための受け皿も充実していた。
その中でも特に有名なのが,これから僕とトルタが通うピオーヴァ音楽学院だ。
数多くの有名なフォルテール奏者や,音楽に関する多くの分野の人材を生み出す,これもまた国の誇りとも言える学院だ。
その一員になれたと知ったのが,今日のお昼前。厚い封筒に入った二人分の合格の通知を,アリエッタがここまで運んでくれた。
子供の頃からずっとお世話になっているこの音楽教室の先生も,一緒になって喜んでくれた。
ここから学院の生徒を出せたことを,誇りに思うって言ってたっけ。
先生に続き,アルもなにか用事があるって言って帰ったけど,僕とトルタは,ここに残って好き放題に歌ったり楽器を弾いたりして騒いでいた。
僕達の他は生徒がいないような小さな教室だったから,合い鍵も持っていたし,残って遊んだりするのもいつものことだ。
「なに考えてるの? さっきから黙っちゃって」
突然,トルタが話しかけてきた。二人とも,まだ上を向いたまま,話を続ける。
「ん? 昔のこととか」
「小さいときのこと?」
「それよりずっと昔。歴史の話なんかだよ」
「なにそれ,似合わないの」
トルタも相当機嫌が良いのか,ほとんど笑いながら軽口を叩いた。
「もう一曲,なにか弾こうか」
「う〜ん,喉痛いけど……一曲くらいならいいか」
僕は僕でかなり疲れていたけど,興奮が未だ冷めていなかった。
このまま寝転がりたい衝動を抑え,勢いをつけて椅子に座り直そうと頭で考えていると,
入り口の方でドアの開く音がした。首だけ向けて様子を窺う。
「やっぱりまだ残ってたんだね。良かった」
アリエッタが,バスケットに山盛りの何かを乗せ,おぼつかない足取りで教室に入ってきた。
先生が自分の家の一部屋を改装して作ったこの教室は,楽譜や譜面立てを保管する楽器庫やホワイトボード,
十人ほどが一度にレッスンを受けられるスペースで成り立っている。
普通の家にしてはかなり広い方の部屋だったけど,二台のグランドピアノ,十個のパイプ椅子が並び,結構手狭な感じだ。
緩やかな弧を描くように並べられた椅子の合間を縫うように歩き,アルが僕の前に立って顔を覗き込んだ。
「なに見てるの?」
「ただの天井。疲れて見上げてただけだよ」
それを機にきちんと座り直し,アルと向かい合うように椅子の位置をずらした。
「ああ,アル。どうかしたの?」
まだ天井を見上げているトルタが,少し不機嫌そうに言った。
なにか弾こうとしているのを中断されたからだろう。
なんだかんだ言っても,トルタは歌うのが好きだったから。
「どうかって……二人を迎えに来たの。そろそろ晩ご飯だよ。
クリスも来るでしょ? 今日は特別な日なんだから」
「僕の家には寄った?」
「寄ったよ。二人とも来るって」
僕と,アルとトルタの双子の姉妹は,家が隣り合わせで,いわゆる幼なじみの関係だった。
同じ年頃の子供がいたおかげで,お互いの両親も仲が良い。
日曜日には,それぞれの家に料理を持ち寄って,一緒に食べる習慣まであるほどだ。
先週は僕の家で食べたから,今回はアルの所といった具合だ。 次のページへ