「でも,晩ご飯って言ってるわりに,それは? 良い匂いがしてるんだけど」
アルの持っているバスケットからは,香ばしい匂いが漂ってきていた。
アリエッタは料理を作るのが趣味で,春からは街のパン屋さんに勤めることにもなっている。
最近は家でもよく作っているようで,香りが僕の家まで届くくらいだ。
「お祝いにって作ったの。本当は三時頃に食べられるようにって思ってたんだけど……
材料がなくってお買い物とかに行ってたら,遅くなっちゃって」
その材料も,多分買い過ぎたんじゃないだろうか。
両手で抱えるほど大きなバスケットには,こぼれそうになるほどのパンが詰め込まれていた。
「まあいいや,とにかく一個もらうよ。晩は晩で,食べるから」
「あ……でも,ご飯はどうしよう?」
「あのねえ,わざわざ持ってきてるってことは,私達に食べて欲しいってことでしょ?」
文句を言いながら,トルタがパンを一つ取った。僕は二つ取って,そのうちの一つをアルに差し出す。
アルはバスケットを脇の椅子に置いて,仕方なさそうに笑って受け取った。
そして,三人で向かい合うように椅子を並べ,わいわい言いながらパンを食べる。
できたてのそのパンは,なにもつけなくても甘く,いくらでも食べられそうだった。
四個目に手を伸ばした時に,ようやくアルが僕の手を止めた。
「クリス,そこまでにしないと」
「……でも,晩ご飯までは,あと一時間くらいはあるよね?」
「うん。七時頃にできるってうちのお母さんが言ってたから」
「それまでには,お腹も減るよ」
そう言い訳をしてみても,アルは毅然とした態度でバスケットを僕から遠ざけた。
アルは普段は気の弱い,大人しい感じの女の子だけど,
駄目だと思うことや自分の信じていることなんかには、驚くほど強い意志をみせることがある。
こうなったらもう,いうことを聞くしかなかった。
気が強い妹のトルタでさえ,こんな時には逆らえない。
「しょうがない。なら,そろそろ出ようか? 歩いてればお腹も空くだろうし」
そう言って僕が椅子から立ち上がると,二人とも同じようにその後に続いた。
椅子をもとあったように並べ直し,空調と電気を消す。窓から射し込む光は,もうすでに弱くなっていた。
冬に入ってからは,驚くほど日が落ちるのが早い。もう十分もしないうちに,辺りは真っ暗になるだろう。
預かっている鍵をポストに入れ,三人で外に出る。生徒数三人の音楽教室は,こんな風にして終わることがよくあった。
全面的に僕達を信頼してくれているから,先生が出かけているときでも自由に使うことができた。
僕達がいなくなったらどうするんだろうかと最近になって考えたことがあったけど,そんなに心配することもないのかもしれない。
月謝と言ってもほんとにわずかで,そのほとんどが,僕達に時々出してくれるお菓子や紅茶なんかに消えている気がする。
先生は他にちゃんと仕事をもっていて,この教室はほとんど道楽のようなものだって自分でも言っていたっけ。
一人でも生徒が新しく入ってくれば,先生はその子供に音楽の楽しさを教え,この教室を続けていくんだろう。
いや,もし入ってこなくても,生徒を待ちながらひっそりと宣伝していくんじゃないだろうか。
それに,今でも生徒は二人だけみたいなものだった。
アルは歌があまり……というより,かなり上手ではなかったので,今ではほとんど練習もしていない。
今日みたいに,時々僕達の様子を覗いては,差し入れを持ってきてくれたりするだけだ。
その音楽教室を出て,三人で暗くなり始めた道を歩く。
この辺りは民家もまばらで,暗くなり始めると人通りも極端に少なくなり,少し寂しい。
遠い間隔で立てられた街灯が,ぽつりぽつりと点き始める。
僕達の家は,先生の家から歩いて五分くらいの距離にある。
三人でおしゃべりをしていると,最後の曲がり角でトルタが急に立ち止まった。
「私はそのまま家に帰るけど,二人はどうする? 少し歩いてから帰る?」
突然トルタがそんなことを言うのには,理由があった。
彼女がわざわざ気を遣ってくれているのに,それを無にしてしまうのは,どちらにとってもあまり良いことではない。
「え? ……ああ,そうだね。じゃあぶらっと歩いてから帰ろうか,アル。
七時までに戻ればいいんだよね?」
「あ,うん。そうなんだけど……トルタは?」
「邪魔するのは嫌だから。二人で行ってきなさいよ」
僕達の返事を待たずに,トルタは角を曲がってさっさと家に帰っていった。
その後ろ姿をアルと二人で見送る。
「行っちゃった。なんだかトルタに,気を遣わせたちゃったみたいだね」
アルが,少し悲しそうにそう言った。
トルタのそうした行動に,一番戸惑っているのはアリエッタだった。
僕はそうでもなかったし,当のトルタこそが,なにより進んでそうしてくれているのに。
トルタの好意を受け入れ,僕達はまっすぐに道を進む。
次の角を曲がって,少し遠回りをして家に帰れば,着く頃にはちょうど七時になっているだろう。
デート,とまではいかなくても,こうして二人きりで歩くのは,それだけで心が踊るような時間だった。
――僕とアルが付き合うようになったのは,今から半年前。
きっかけは,特になんでもないようなことだった。
アリエッタを好きだと自覚をしたのは,そんなに昔のことじゃない。
幼なじみの双子の姉妹は,とにかく距離が近すぎて,ある時までは親友という位置づけにしか思ってなかった。
共に遊び,共に学び,家族のように接し,時には家族以上に同じ時間を過ごしていたから。
アルやトルタを異性だと意識するようになったのも,本当につい最近のことだった。
そして,トルタではなくアルを選んだのも,ささいな理由からだったと思う。
言葉にしてしまえば陳腐で,どうでもいいことに思えるけど,アルには僕が必要だったんだと感じたからだった。
トルタは,歌の才能に恵まれ,それに見合う努力もし,実力で未来をつかみ取った。
もちろんアルだって,自分の好きなことを見つけ,それに対して努力をして,彼女なりの未来を築きあげている。
共に進むのなら,共通の音楽の道に進むトルタを選んだ方が良いと,周りの誰もが思っていた。
でも僕は,アリエッタを選んだ。
それぞれの両親もそうだったけど,そのことに一番驚いていたのは,アル本人だった。
アルは,歌が上手くないことで自分にコンプレックスをもっていた。
いや,今でもそれは,なくなったわけではないだろう。
国をあげての文化である音楽という分野で,妹は実力を認められている。
その事実に,彼女は思い悩んだんだろう。
籍は残しているものの,音楽教室に通わなくなり,だんだんと内にこもるようになった。
でも音楽自体は大好きで,僕達の演奏を時折聴きに来たりしていた。
いつも遠くから,誰にも気づかれないように,じっと僕達のことを見つめていたんだ。
その視線に気づいたとき,僕はアルのことを好きになったんだと思う。
人に認められるような美しい歌声。それは確かに素晴らしいことだろう。
でも,美味しいパンを作れることだって,それと同じくらいに素晴らしいことだった。
アルが不当な劣等感を抱いていること自体が不自然なのであって,彼女はもっと,自分のことを誇らしく思うべきだった。
でも彼女は弱く,それを認めてくれる人を必要としている。
……でも実際の所はそんな大層なことでもなく,結局僕が,彼女のことを好きなだけだった。
長い物思いから覚めるころには,辺りは完全に暗くなっていた。
ふと視線を横に向けると,アルはいつものように,静かに僕の横顔を見つめていた。
こういうとき,彼女は何も言わず,僕が戻ってくるのをひたすらに待っている。
「ごめん。ちょっと考え事してた」
「なにを考えてたの?」
軽く笑いながら,アルが訊ねる。
「昔のこと……アルに好きだって言った時のことかな」
アルはまだこの事実に慣れていないのか,顔を赤らめて下を向いた。
その仕草がかわいらしく,思わず抱きしめたくなる。
でもまだ,僕達は手を繋いだことすらなかった。
「……と,とにかく。えっと,おめでとう」
「ん?」
「音楽学院に合格したこと」
「ああ,ありがと。でも僕の場合は,フォルテールが弾けるだけだから」
「だけじゃないよ。だってずっと,一生懸命練習してたじゃない」
「音楽が好きなだけだよ。一生懸命やってるつもりなんて,特になかったし」
「そう思えるのなら,それはとても良いことだと思うよ」
「……うん,ありがと」 次のページへ