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シンフォニック=レイン シンフォニック=レイン
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シンフォニック=レイン
 
プレリュード02 『Tortinita』

PHOTO 夏の強い日差しが窓から差し込み,瞼の裏を赤く染める。過ごしやすいように空調は常につけてあるが,キッチンは今,熱気に包まれていた。時刻は昼を少し過ぎた辺りだろうか,私は閉じていた目を開き,ぼんやりと映る辺りを見渡した。
 オーブンからは,チーズの焼ける香ばしい香りが漂ってきている。わざわざキッチンにも置いてある椅子から身体を起こし,居間にいるはずのトルタに声をかける。

「あ,良い匂いがしてきたね。もうできあがり?」

 トルタはすぐにやってきてそう言った。私は長年の経験と勘で,もう少し時間が必要だとわかっていた。でも,あえて質問をする。

「もう大丈夫だと思うかい?」
「え? それは,わかんないけど。おばあちゃんがわかってるんじゃないの?」
「トルタに聞いてるんだよ。どう思う?」
「え? ……ええ? うんと……もうちょっと……かな?」

 自信のなさそうな声で,トルタはオーブンに顔を近づけたようだった。それからしばらくは何も言わずに,ただ黙って中の様子を窺っている。そして,今度ははっきりと言った。

「うん,まだ少し焼かないと駄目だね」

 トルタもだいぶ,料理のことがわかってきたようだ。それに安心して微笑むと,トルタは小さく嬉しそうな声をあげた。

「今度は自分で作ってみるかい?」
「う〜ん……今日みたいな日は止めとく。おばあちゃんが出かけてる日にでも一人で作るよ。それなら失敗しても誰にも迷惑かからないし」

 今日は,クリスが家に来る日だった。年に四,五回程度だろうか,わざわざ私のために顔を見せに来てくれる。
 彼がまだ幼い頃,私もトルタ達と一緒にクリスの隣の家に住んでいたことがあった。クリスは祖父母と一緒に暮らしてはいなかったので,時折遊びに来ては,私のことをお婆ちゃんと呼んでいた。私も孫がもう一人増えたように思え,可愛がったものだった。

 私が一人でピオーヴァの街に越してきたのが,今から約七年前。小さい頃から音楽が好きで,この街には憧れを抱いていた。とはいえ演奏する才能はとんとなかったから,本当に憧れに過ぎなかった。しかし年を取り,それなりに余裕が出てくると,欲もまた出てくる。毎週毎月街のコンサートホールで行われる演奏は,ものにもよるが,大半が手頃な値段で入ることができた。私がこの地に住もうと考えたのも,自然な流れだったのかもしれない。それに,いつかはここで暮らしたいと言い続けていたから,息子夫婦にもさほど反対はされなかった。半ばあきらめられていたようでもある。
 そしてなにより,だんだんと視力を失いつつある自分の眼が,最後のチャンスだと教えてくれたからでもあった。老人性の白内障だと早い段階で気づけたおかげで,今はこうして料理でも不自由なく作ることができる。何年もかけて物のある場所を覚え,生活のほぼ全般を自分の手で行えるように努力もした。

 自分の道楽で始めたこの生活も,トルタが家にやってきたことで,それなりの意味をもつことができた。クリスのフォルテール科と違い,国からの援助の一切無い声楽科への進学は,一介の市民にとっては大きな負担となる。学院の生徒は,貴族や,彼等に拾われた孤児達が大半を占めるが,それでもトルタのように,一般的な家庭から来る生徒の数も少なくはなかった。
 そうして,人生の残り少ない時間ではあるが,私は幸せな時間を送っている。
 その中でも特にお気に入りの時間が,クリスが遊びに来てくれる,こんな日だった。

「それで,クリスは何時頃に?」
「午後になってからって言ってたかな。やっぱりいつも通り,昼ご飯は自分の家で食べるんだって」
「そうかい……なら仕方ないね」

 クリスはここに来てから,少し遠慮をするようになった。きっとここに来る前からなんだろうけど,私にとってはどちらでも意味は同じだ。それがただの成長であるとは,思えない節がある。子供達の抱える問題に関われないことは理解しつつも,それをただ見ているだけというのは,なんとも歯がゆい。幼い頃の記憶でも,同じように私は迷い,そして成長してきた。助言や,ほんの少しだけなら助けることもできる。
 ただ,根幹の部分において,やはり子供達は自分の力で乗り切らなければならない。
 老人という立場は,かくも不便で,もどかしい。

「じゃあトルタ,いったんラザニアをあげて。ここまでやっておけば,最後に暖めるだけで構わないから」
「は〜い」

 クリスが来てからは料理もままならなくなるので,早い時間から用意は怠らない。トルタは私の言葉を待って,それから様々な用意を始めた。

 それから数時間くらい経ってからだろう。控えめににドアをノックする音が聞こえ,待ちくたびれた様子のトルタが大きな声を上げながら,客を出迎えに行った。

「もう,遅いよ。昼過ぎっていうのは,せいぜい二時まででしょ」
「……ごめん,なんか体調が悪くて」

 ドアの前での二人の押し問答が,最後のクリスの一言で終わりを告げた。二つ見える人影の一つが私に近づき,椅子の肘掛けに置いてあるこの手に触れた。

「遅くなってすみません。ちょっと事情がありまして」

 触れた手が,少し熱い。だるそうな声で,クリスは私にそう言った。

「風邪かい? 少しからだが熱いみたいだけど」
「そうみたいです。ちょっと昨日の夜から夏風邪をひいちゃったみたいで」

 軽くせき込んだ後に,クリスは少しだるそうな声でそう答える。それならそうと,早めに言ってくれれば良かったのにと思う。

「それなら無理に来ることはなかったのに。また,具合の良い時にでもいらっしゃい」
「……いえ,約束しましたから」

 立っているのが辛そうな彼に席を勧め,今日はこのまま寝かせた方が良いと判断した。口ではああ言っているものの,最近遠慮がちなクリスがすぐに席に座ったくらいだ。相当きついんだろう。

「少し横になるかい?」
「……いえ,本当に大丈夫です。それより,せっかく来たんですから」

 クリスは言いながら,机の上に何かを置いた。多分,フォルテールを持ち運ぶためのケースだろう。

「ちょっと,クリス……結構ふらふらしてるよ」
「だから,大丈夫だって。フォルテールまで持ってきたんだから,いつものように……」

 トルタの心配する言葉を遮るように言い張るクリスを,今度は私が彼の言葉を止めるように名前を呼んだ。

「クリス」
「……はい」
「少し寝なさい。部屋はお客さん用のがあるから」

 優しく,諭すように言うと,クリスは子供のように頼りなげに頷いた。

 年に数回ではあったが,クリスはこうして遊びに来てくれて,いつもフォルテールを弾いてくれる。だんだん上手くなっていく課程を聴けるようで,私はいつもそれを楽しみにしていたんだけど,こういう場合なら話は別だ。あくまで元気な顔を見せてくれるついでなのであって,無理に弾かせるつもりはない。
 二階にあるお客様用の寝室にクリスを案内しようとすると,トルタが突然,後のことは全てやると言い出した。

「おばあちゃんは休んでて。シーツ替えたりするのは結構大変だから」
「……わかったよ。じゃあ任せるから,用意が済んだら呼んで」
「は〜い」

 元気の良い返事を残して,トルタは二階へとあがっていった。建物自体が古いとはいえ,頑丈な作りの一戸建ては,私にとっては過ぎた物件のような気もする。一階は居間やキッチン,そして私の寝室など。二階にはトルタの部屋やこれからクリスの寝る客用の寝室がなどあり,充分な広さといえた。

「……ごめんなさい。せっかく来たのに」

 口調まで幼くなったように,クリスが小さな声で言う。

「いいのよ。でも,どうして家で休まなかったの?」
「ニンナさんが楽しみにしてるかと思って。それに……台所から良い匂いがしてますから」

 料理に関しては,自分でもそれなりのものだと思っている。それを楽しみにしてくれているのはありがたいが,自分の身体をまず第一に考えて欲しいものだ。

「言えばいつでも作ってあげるよ」
「そう毎日は,頼めませんから」

 そこまで言って,ほんの少し気づいたことがある。身体は辛いはずなのに,クリスは少し笑っていた。もちろんはっきりと顔が見えるわけではないが,口調からもそんな印象を感じた。

「一人で,寂しかったのかい?」
「ち,違いますよ」

 誰にでも覚えがあるだろう。風邪を引いたときに,寂しくて誰かに側に居て欲しいと思ったことが。否定はしたが,間違ってもいない気がした。

「はいはい。もう少し待ってなさい」

 クリスはしばらくふてくされて黙っていたが,トルタが階段を降りる音がして,椅子から立ち上がった。

「えっと……じゃあ,少し休ませてもらいます」
「どうぞ。それで,晩ご飯はどうする?」
「いただけるのなら,ぜひ。それが楽しみで来たんですから」
「お待たせ。……って,はいはい,馬鹿なこと言ってないで早く行くよ」

 この後に及んでまだお世辞を言っているクリスを,引っ張るようにしてトルタが寝室へと連れて行く。久しぶりに家に来たのが嬉しいのか,それとも軽口を言えるのが嬉しいのか,とにかくトルタは機嫌が良さそうだ。

 クリスのことは後で様子を見に行くとして,私は自分のできることをする。どの程度悪いのかはわからないが,チーズのたっぷりと入ったラザニアは,病人の食べるご飯としてはふさわしくない。献立を変える必要がありそうだ。
 すでに慣れ親しんだキッチンまで歩き,何を作ろうかと考え始めた。

 きっと朝はなにも食べていないだろうクリスにリゾットを作ろうと考えていると,トルタが階下に降りて来る音がした。

「あれ? なにか作ってる?」
「消化の良い物をね。今日作ったラザニアは帰るときにでも包んであげましょう。クリスはお腹空いてるって? 聞いてきたんでしょう?」
「う……さすが鋭いね。うん,まだなにも食べてないみたい。しかも昨日からだって。食欲はないって言ってたけど,無理にでも食べさせないと」
「リゾットを作ろうと思ってるんだけど……」
「あ,うん」
「トルタ,作ってみるかい?」
「わ……私はいいよ。まだ下手だし」
「練習してるでしょ? こういうのは,大切な人のために作るのが,一番上達が早いんだよ」
「それは……そうかもしれないけど」 次のページへ

 

 

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