「……あの,どうかしましたか? 私の歌……変でした?」
一瞬,謙遜でそう言っているのかとも思った。でも,彼女の顔は真剣で,冗談を言っているようには思えない。これだけの歌を歌えて,どうして? とも思ったが,すぐに思い直した。
小さい頃から歌を歌い,ピオーヴァ音楽学院に来るくらいの女の子だ。家庭でも,ずいぶんと厳しく育てられたのだろう。うわついた気持ちでここに来た私とは,全てにおいて違うのだろう。
「いや,どこも変じゃないよ。すごく上手かったよ」
「ほ,本当ですか?」
「うん」
私が心からそう言っているのが,口調でわかったんだろう。嬉しそうにリセちゃんはそう言って,頬を赤らめた。私が女じゃなかったら,思わず抱きしめてしまいそうな笑みだった。
「ラッセンさんも上手かったですよ。さすがだと思いました」
それがお世辞の類であることはわかっている。でも,心からそう言ってくれていることがわかり,笑顔で頷いた。それに,今の演奏だけ聴くのなら,私もそう捨てたもんじゃないとも思える。リセちゃんの歌声に引き立てられて,というのが正直なところだが,悪い気はしなかった。それも,彼女の人柄なんだろう。
「あ……あの,それならもう一曲いいですか?」
「もちろん」
調子に乗って私も答える。こんなに純粋に音楽を楽しいと思ったのは,いつぶりだろう。もっともっと小さい頃だったか,それとも学院に入ってからは,全くなかったんだろうか。
でも,それも今はどうでもいいことだ。私はフォルテールに再び向かい合い,彼女の知っていそうな曲を選んで弾き始めた。案の定彼女はその曲を知っていたらしく,続けて歌い始める。
気づけば,約束の一時間を,少し超えてしまっていた。五分前には終わらせよう決めていたにも関わらず,それも忘れるくらいに楽しい時間だったらしい。
「あ! リセちゃん,時間,時間!」
「え? ……あ」
彼女も壁に掛けられた時計を確認して,まずそうな顔をする。彼女の家庭が厳しいのは,音楽にだけではないらしい。
「あ,あの,ありがとうございました」
「いいから,急いで。忘れ物はない?」
「大丈夫です」
私の用意はどうでも良かったから,フォルテールはそのままにして急いで旧校舎の門の前まで一緒に走る。
「あの,ここまでで大丈夫です。今日は,本当にありがとうございました」
「いいよ,そんなにお礼を言わなくても。こっちこそ感謝したいくらい」
「ラッセンさんは……もう卒業なんですよね?」
「うん,来年にはいなくなってる」
「……そうですか」
時間が無いというのに,彼女は悠長に残念そうな顔をして私を見つめた。
「ほら,時間は?」
「少しくらいなら,大丈夫です」
「ならいいけど。ほんと,今日はありがと。なんか色々悩んでたんだけど,ちょっといい気晴らしになった」
「そ,そうですか?」
「うん。これから……三年間がんばりなさいよ」
「はい。がんばります」
その言葉を聞いて,なんだか私も嬉しくなる。初めてこの学院に来たとき,私もきっと,同じような顔をしていたに違いない。
その顔がいつまでも曇らないように,となんだか女の子らしいお願いを心の中で呟いていると,リセちゃんが私と,その後ろにある旧校舎を眺めていた。
「どうかしたの?」
「この場所,他には誰も来ないんですか?」
「ああ,滅多にね。物好きな生徒が時々来るくらい。私の場合,練習したくないときとかね。考えてみれば,お気に入りの場所だったな」
感慨深げに私も旧校舎を見上げていると,彼女が最後に訊ねた。
「ここって,いつでも使っていいんですか」
「うん,学生になったらね。一人になりたいときとか,リセちゃんも使うと良いよ」
「……いつか,また一緒に演奏できたらいいですね」
「そうだね」
「約束しませんか?」
「……うん」
果たされることのない約束をして,私達は別れた。
音楽室に戻り,フォルテールをケースにしまう。そして,すぐに思い直して再びフォルテールを組み立てた。鞄の中からオリジナルの楽譜を出し,最初の一小節を弾き始める。
もし時間があったのなら,この曲を一緒にアンサンブルしても良かったと思い,やっぱりそれも恥ずかしいからやめておいて良かったとも思った。
気分は驚くほど晴れやかだ。リセちゃんのような人材が,ゆくゆくはこの国の音楽界を担っていくんだろう。
私は多分,彼女と一緒に演奏することはできないと思う。さっきしたばかりの悪意のない約束は,守れそうにない。それほどまでにプロの世界は厳しかったし,その中で残れる自信もなかった。
ただ,彼女にはその資質もあるし,きっとそうなるだろう。
そしてわずかに沸いた嫉妬心も,彼女の笑顔を思い浮かべるだけですぐに消えていった。
私は止まっていた手をもう一度動かして,フォルテールの練習を再び始めた。例え結果がどのようになろうとも,とにかく卒業演奏だけはがんばってみようと思った。
いつか誰かに,ここで過ごした時間のことを――この時のことを誇れるように。少なくとも,自分だけには誇れますように,と。