日本初の路面電車に実在した少年乗務員「告知人」の悲しくはかないお話(4/4 ページ)
6月10日は路面電車の日。明治時代、ボーズ頭の少年が「あぶのおまっせー!」と叫ぶ路面電車の仕事がありました。
見苦しいとの世論も…… 告知人制度は10年で廃止に
そもそもハードな上に、当時のほこりっぽい道を走るので、告知人の服はいつもほこりと汗まみれ。冬になれば鼻水を出しながらがんばって走り続けることもありました。
でも、見苦しいと世間の評判は芳しいものではありませんでした。新聞に批判的に取り上げられることもありました。
このように批判されがちであったことに加え、告知人本来の目的である事故防止も車両前後に取り付けた救助網があれば大丈夫と京電は判断。京電は1987(明治30)年の5月と12月の2回に渡り、府に告知人制度の廃止を申請します。
その結果、1898(明治31)年に夜間の告知人制度が、1904(明治37)年に昼間の告知人制度が廃止となりました。
『チンチン電車物語』の著者・大西氏の調査によると、当時の京電の記録には「告知人ノ制度ハ有害無効ニシテ且ツ不体裁」「全ク告知人ヲ廃止セラレ積年ノ本社ノ希望ヲ満タシ」などの言葉があるそうです。
京電自体も告知人の制度を問題視し、早く廃止したいと思っていた様子がこの言葉から伺えます。
告知人制度は明治時代ほんのわずか10年の歴史。この間に路面電車は東京、名古屋、大阪などでも次々に開業し、花開きましたが、告知人制度を採用した都市はほかにありませんでした。
京電はその後、1918(大正7)年に京都市に買収され市電となります。その市電も1978(昭和53)年に全線廃止となりました。
2020年現在、多くのクルマや歩行者が行き交う京都の道路上に、市電の痕跡はまったくといっていいほど残っていません。しかし道路の周囲には、今でも市電に使われていた架線柱や鉄橋の跡を見つけることができます。また、市電に使われていた敷石は金戒光明寺などの寺院の参道、二年坂・産寧坂などの道の敷石に再利用されています。
次に京都を歩く機会があれば、日本初の路面電車に、そして「告知人」の少年が街を駆け抜けた姿に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(鶴原早恵子)
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