連載

意味がわかると怖い話:「朋乃の呪い」(1/2 ページ)

かつての恋人の影。

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 ひとたび気づくと、なにやら違う光景が見えてくる……「意味がわかると怖い話」を紹介する連載です。

「朋乃の呪い」

 助けて。置いていかないで。

 乳白色の霧の中で、冷たい女の手が私の腕を掴む。振り返ると、絶望に顔を歪めた「彼女」が立っている。私は必死で振り払おうとする。腰にしがみつかれ、私の体はそのまま霧に沈んでいく――そんな夢から目を醒ました。

 

 20年前の秋、Y大学の上代日本史研究室にいた私は、指導教官である久我教授に連れられ、一年下の矢野朋乃とともに奈良県S市へ発掘調査に赴いた。宅地造成の際に発見された6世紀頃のものと批准される古墳の調査で、同地のT大学のチームと合同で行われる予定だった。

 あの夜、私と朋乃は久我教授の命を受け、レンタカーで発掘現場に向かった。辺りは田んぼが広がっているばかりで、人通りは絶え街灯もない。ただ、仄白い夜霧だけがたなびいていた。

 私たちの目的は、翌日の調査で教授が「発見する」神獣鏡の破片を埋めることだった。宮城県のK遺跡から出土したものと形式の近い(実際にはそこで密かに採取していたのだ)神獣鏡が6世紀の奈良県の古墳から出土すれば、教授が長年提唱してきたある学説が、強力な証拠を得ることになる。――つまりは捏造の実行犯だった。

 懐中電灯の小さな光を頼りに、まずは身軽な朋乃が表土を剥がした遺構の底面まで降りる。それに続こうとした時だった。

 轟音とともに、幅十メートルほどに渡って壁面の土砂が突如として崩れた。

 あとで知ったが、前日の豪雨で土壌がかなり緩んでいたという。

 悲鳴を上げる間もなく、朋乃の姿は真っ黒な土の中に消えた。

 小さなスコップしか持ってきていなかった私は、3メートルほども積もって見える土砂を前に、なすすべがなかった。消防に連絡を――と思ったが、「こんな時間に発掘現場で何をしていたのか」と怪しまれる可能性を思うと怖くなった。教授の指示で出土品を偽装したのは、これが初めてではなかったからだ。

 携帯で教授に指示を乞うた。電話口の教授はしばし、逡巡するような間をおいてから、短く言った。

「そのまま車を置いて帰って来い」

 教授も私と同じ懸念に至ったのだと分かった。

 翌朝になってT大のチームによって現場の崩落は「発見」され、重機が動員され朋乃の窒息死体が掘り出された。私は教授に言われるまま、「前日の午後、現場の下見に行った際に何か忘れ物をしたと言っていた。彼女が宿を出たのには気づかなかったがひとりで探しに行ったのだろう」と証言した。

 朋乃の死は不運な事故として地方紙で一度、小さく扱われたが、それきりだった。

 

 ひと頃は毎晩のように、朋乃に追いすがられる夢を見た。

 待って。助けて。

 冷たい朋乃の手が。霧に濡れた黒髪の間から覗く、絶望に歪んだ顔が。私を責め苛んだ。当時、私は彼女と付き合っていた。

 逃げるように大学を辞め、友人のツテで小さな出版社に職を得た。職場の同僚とありきたりな結婚をして、一人娘を授かった。

 凡庸に、誰にも見咎(とが)められないように……それだけを思って生きてきた。

 7年前だったか、久我教授がガンで急死したと知った時には、肩の荷が下りた気がした。私の罪を知る者がいなくなったことに歓喜した。

 それでも娘が大きくなるにつれ――とりわけ、大学で日本史学を学びたいと言われた時には、胸がさざめいた。朋乃が死んだ年に近づいていく。通夜の晩に会った、目を泣き腫らせた彼女の母親の顔が眼前にちらついた。

 

 朋乃の夢を見るのは、いつ以来だろう。あるいは、志望大学に合格したことを報告するためと、妻が娘を連れて実家に戻っていて、久しぶりに独りの夜だったからかもしれない。

 寝醒めた私は、目の前が変わらず、白くけぶっていることに気づいた。

 焦げ臭い匂いがあたりに充満している。火事だと悟り、ベッドから起き上がった。

 頭上の煙を避けて身をかがめ、私はリビングに出た。既に天井まで火が回っていて、サウナのような乾いた暑さに思わず顔をしかめる。

 待って。置いていかないで。

 女の声がした。背後から女の手が、私の腰を掴んだ。

 ああ、朋乃はまだ私を許していなかったのだ。彼女は私の死を望んでいる――私は女の手を振り払おうとした。女はより強く、私にしがみついてくる。

 行かないで。待ってよ。

 死に物狂いで両手を引き剥がした私は、なおも私に手を伸ばす女の影を、無我夢中で燃え盛る炎の中に突き飛ばした。

 そして高温で割れた掃き出し窓から庭に這い出し――そこで私の意識は途切れた。

 

 遠いサイレンの音。鼻をつく消毒液の匂い。自分が病院のベッドに寝ていると気づく。目は開いているが、白くぼやけて焦点が合わない。

 ……だが、どうやら私は助かったらしい。枕元に誰かが座っている。2人分の声が耳に届く。片方は妻だ。

 忘れ物を取りに……ひとりで家に戻って……ではご主人は……そのはずですが……遺体に……頭を打ったようで……ええ、揉み合った跡が……

 何の話をしているのだろう。霧がかかったように不鮮明な頭で考えているうちに、私の意識はまた深く落ちていった――

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