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バーチャル空間でのクラブイベントが人気加速中! 第一人者DJ SHARPNELに聞く、インターネットとVRのDJ30年史(3/4 ページ)

VRのクラブなら、おうちから0秒で遊びに行けます。

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――96年ぐらいだとインターネットが始まったばっかりですが、DJ SHARPNELさんがネット上でもインディーズでCDを作って販売していたのはかなり早かったと思うんですよ。

 ネットレーベルとしての活動は僕らも96年ぐらいから「Project Gabbangelion」という形態で始めていたんですけども、そのときはトラッカーの音楽の形式でファイルを配ればトラッカーで再生できる形ではありました。mp3とかがまだ流行る前の段階、RealAudio(※9)とかが使われてた頃ですね。5メガとかの音源をまるまる流通させるっていうのはまだ現実的ではなかったです。電話回線でダイヤルアップでつないで128Kとかの時代です。

※9 1995年開発のオーディオフォーマット。ダイヤルアップ接続などの低速通信でも再生できるのが特徴で、ネットラジオやストリーミング放送で使われた

――僕はその頃CD-Rで販売されていた音源を直接郵送で買っていたんですよ。当時衝撃だったのが「ICQ」(※10)という曲です。インターネットの隅っこのドロッとしたネタをクラブサウンドにする人が世の中にいるんだと。

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※10 「フロム・ザ・はーと 地獄編」(1998年)収録。1996年開発のインスタントメッセンジャーアプリ「ICQ」を題材に、情報漏えいなどブラックユーモアをテクノサウンドに乗せて歌っている

 電気グルーヴの影響がすごくあったんです。サードアルバムに入っている「ICQ」の頃はライブをやるようになっていて、パフォーマンスを意識した楽曲作りをするようにはなっていたんですね。DJ急行さんが当時メンバーで入っていたので彼にラップをしてもらって、それを収録することでバンド的な作り方にできたのがあの作品だったかな。

――サンプリング曲も当時としては、DJ SHARPNELさんはだいぶとがっていたイメージがあるんです。

 もちろん80年代アイドルやゲームも好きだったのでサンプリングしているんですけど、今日放送されたアニメをその日のうちにサンプリングして曲を作る、ジャスト今のオタクの姿を出しました。同時代感みたいなところはすごく特徴的だったかなと思います。

――現在のアニソン系ハードコアの方達のスタイルはその流れの影響を受けているように見えます。

 テクノロジーが追いついてるところもあると思います。放送中でも自分が高まったら、その段階で曲作っちゃうっていうのは、表現の仕方として、文化として成り立ってるかなって思いますね。

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「葉鍵」「東方」「音ゲー」の世代

――2000年前後からはDJ SHARPNELさんの活動の幅が広がっていましたね。

 1998年に「高速音楽隊シャープネル」っていうのを始めて、大学生だったので就職などで2000年には解散したりもしました。以降はDJ SHARPNELとして、2000年中盤ぐらいからはsharpnel.netっていう映像も含めた「パフォーマンス」プラス「トラックメイク」にフォーカスした活動になっていきました。

 もともとの活動自体もパソコン通信上で始めていて、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)が始まる前のインターネット、JUNET(※11)の時代からテクノのやりとりをしていましたし、ネットレーベルとしても今年で30年ぐらい頑張っています。できるところの最先端をやっておきたい気持ちはすごくありますね。音楽同人即売会のM3もちょうど98年の冬ぐらいに始まって、僕らが参加したときは40サークルぐらいしかなかった状態でした。

※11 1984年から1991年にあった日本の学術研究用のネットワーク

――40!?(※12)

※12 現在のM3は出展数が1200を超えている

 本当にそこからしばらくは浅草の方ですごくこぢんまりと、会議スペースイベントフェスワンフロアでやってるような状態でしたね。今でこそコミケとかM3では、音楽系サークルはたくさんいるんですけど、98年ぐらいのときはもうコミケでもカテゴリーがないぐらいに小さな状態でした。その頃から細江慎治さんたちはもう「まにきゅあ団」「Sampling Masters」としてハードコアをやられていました。

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――音系の同人の方たちが増えたり、ハードコアをやる人が増えてきたと感じたのはいつくらいの時期ですか?

 2002年とか2003年になってくると「Key」とか「Leaf」の、いわゆる「葉鍵系」のアレンジが大きなムーブメントになって、その後から「東方Project」を主体とした音楽の活動が広がっていったと思います。「葉鍵」「東方」「音ゲー」が日本のインディーズのテクノやクラブミュージックに影響を大きく与えていると思っていて、M3もそのあたりで大きくなりましたね。

――ぼくもそうですが、「beatmania」から「ガバ」を知った日本人は多いかもしれません。

 そうかもしれないですね。2000年代前半はそこまでまだ「音ゲー」がクラブシーンと密接ではなくて、「音ゲー」制作者に対して僕らはプレイヤーもしくはリスナー、っていう分け隔てがあったんです。けれども、2000年代に「葉鍵」の流れで同人音楽がすごく拡大していって、その中で「HARDCORE TANO*C」(※13)などが生まれて、音ゲーに曲が入るようになっていきました。2010年代はそこから同人、アマチュアで音楽作ってる人たちと「音ゲー」の親和性がすごく高くなっていって、みんなが「音ゲー」を活動のフィールドにするタレントのような時代になっていたのが大きな特徴のような気がします。

※13 ハードコアのトラックメイクやクラブイベントを行っている同人サークルで、音ゲー曲製作者も参加している

――コンポーザーとしてならプロとアマチュアの壁が消えていったのは大きいですんでしょうね。

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 「beatmania」自体は90年代に出てたと思うんですけれども、「beatmania」とか「BM98(PCで動かせるbeatmania風のエミュレーター。これのプレイ曲作りとして作曲をはじめた人は多い)」で遊んでた人たちが、音楽を制作する環境としてクリエイターコミュニティーを育てていましたね。「BM98」のカルチャーとかDTMやってるカルチャー、「リスナー兼プレイヤー」だった人たちがだんだん提供する側になっていく。時間がそれだけ過ぎたっていうのもあるのかな。

――DJ SHARPNELさん世代と、この時期から提供する側になっていった人たちの間だと、10年ぐらいの差がありますね。

 自分たちは98年から2000年以降はハードコアのDJ呼んでイベントとかやってますけど、そういうイベントに来てくれてた人たちが「これなら自分でも作れるかもしれない」って作っていって、自分たちで同人サークルを始めたり「葉鍵」「東方」アレンジ始めたり……という流れが大きくなっていった感じです。

アニクラとスマホと大震災

――21世紀に入ってからはシャープネルさんはクラブでどんな活動をされてきたんでしょうか?

 2000年代の特に前半の方は、DJ SHARPNELとかシャープネルサウンド主催での音楽イベントを始めていきました。そこでは「GABBADISCO」というタイトルでやっていましたね。ガバ・ハードコアって本当は楽しい音楽なんですけど、当時のフライヤーを見るとドクロが描いてあるような凶悪で怖い感じになっていたんですね。われわれはどっちかっていうとガバの楽しいところを聞いてほしいので、パーティー面を前面に出してやっていました。

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 98年ぐらいから2000年の間に高速音楽隊シャープネルの活動でやってた「Speedking」は、対バン形式的に6組ぐらいの人たちを集めてライブをしていました。2002年には「OTAKU SPEEDVIBE」というのを行い、自分が最も影響を受けたクリエイターのThe Speed Freakにはドイツから来てもらって、日本側ではアニメサンプリングをやっているアーティストの皆さんをお呼びして、一堂に介するのもやりました。

VRクラブ内に飾られている2002年の「OTAKU SPEEDVIBE」ポスター
2013年に復活した「OTAKU SPEEDVIBE RELOADED」のポスター

――当時は「オタクなのにクラブに行く時代!」と雑誌で書かれていたのが僕は印象的でしたね。

 90年代から2000年初頭は「クラブ文化=かっこいい文化」ではあったし、今みたいにその音ゲーのイベントもあったわけではなかったので。神楽坂「TwinStar」(※14)とか「ヴェルファーレ」でやっていた「コスプレダンスパーティ」や、後楽園ゆうえんちとかでやっていた「コスプレフェスタ」が「コスプレ会場としての音楽イベント」(※15)だったんですけど、普通にクラブイベントやってそこにアニメが入ってくるっていうのは、あんまりなかったですね。

※14 ディスコ。パラパラの聖地としても知られている。コスプレダンスパーティも開催されていた

※ 15 後楽園ゆうえんちでは、アニソンをかけるダンスイベントを行っており、これはクラブカルチャーの文脈と全く別に発展していったのが特徴

――一般の方が「アニクラ」をやるのはもっとあとの印象です。

 全然後ですね。アニクラの流行は秋葉原のクラブ「MOGRA」ができてからですね。確か2009年スタートです。2007年ぐらいにスマートフォンが出てきて、このぐらいのタイミングでTwitterが始まったりとか、UstreamやYouTubeが始まったりとか、2000年代後半が今のテクノロジーにつながるエポックな時期でした。その時期に「電刃/DENAPA!!!」っていう若手のカルチャーイベントが、だんだんと東京で大きなパーティーとして育っていきましたね。

――2006~2007年くらいだと、まだ多くの人がネットをPCで見ていたのではないでしょうか。

 その後スマホが出てきて、ほとんどのスクリーンタイムがスマホに寄っていったっていうのは一環としてありますね。それまではみんなmixiをPCで見て、ガラケーでメールをしていたのが、スマホの登場で一気にネット使用の幅が広くなって、みんながTwitterやるようになった感じがあります。

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