小説は「書かれていること」だけではなく「書かれていないこと」つまり「行間」を読むことが大切です。しかし残念ながら「行間」は、元の言語(英語)から翻訳されるとき、消えてしまうことが多いのです。
今回は、シャーロック・ホームズ作品のなかでも屈指の名作「赤毛組合」をとりあげます。物語の始まりが、日本語訳とはまったくちがう場面に感じられる、これまで読んだことのない心理的駆け引きに満ちたホームズの世界をどうぞお楽しみください。
※ただし、小説の読み方は人それぞれですから、独自の解釈が含まれています。
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日本語訳で読む「赤毛組合」の会話
「赤毛組合」の冒頭部の翻訳を新潮文庫版から引用します。
去年の秋のある日のこと、訪ねてみるとシャーロック・ホームズは、非常にからだつきのがっしりしたあから顔の、髪の毛の燃えるように赤い年配の紳士と、何事か熱心に対談中であった。うっかりはいってきた不作法をわびて、出てゆこうとすると、ホームズがいきなり私をつかまえて部屋のなかへ引っぱりこみ、ドアをぴたりとしめた。
「シャーロック・ホームズの冒険(新潮文庫)」より(強調は引用者による)
この訳文を読むと、ワトソンが、ホームズの忙しいところにひょっこり訪れて「これは失礼」と直ちに出て行こうとしたら、ホームズが、すかさず引きとめた、と感じないでしょうか? それなら、ワトソンは礼儀正しく、ホームズは友情にあつい、という場面になります。
初歩的だが、ワトソン、これはありえないのだ
しかし、シャーロック・ホームズ級の推理力がなくても、このイメージが間違っていることは、あきらかです。なぜなら現在の日本でさえ、他人の家を訪問する場合、勝手に玄関の扉を開ける人は、まずいないでしょう。まして、ヴィクトリア朝の紳士がそんなことをするはずがありません。つまり、日本語訳は、ありえない場面を描いているのです。
ワトソンの訪問については、当時の社会常識から行間を読めます。まず、ワトソンは玄関の「呼び鈴」を引いて、訪問を告げたでしょう。
すると、ボーイのビリー(またはハドソン夫人)が、ドアを開けてくれますので、ホームズが在宅かをたずねます。
常識的に考えて、ビリーはここで、ホームズに先客がいることを伝えるはずです。
つまり、ワトソンは客がいることを知りながら、厚かましく上がり込んだのですから、日本語訳1コマ目のような場面は、根本的に間違っています。原文の "intrusion"(不法侵入)という強い語感の単語を「うっかりはいってきた不作法」と、無理にソフトな訳にするのは、シチュエーションを誤解しているからです。
では実際はどうなのか、それが原文の「行間」に書いてあるのです。さあ、これから解読していきましょう。
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