今秋、日本では良作スリラー映画が相次いで公開された。ライフル業界とロビイストの対立を描く「女神の見えざる手」をはじめとして、エセ宗教を通じて善悪、真偽の臨界点を見せつけた「我は神なり」、「ソウ」シリーズ7年ぶりの新作「ソウ:レガシー」、さらにはいずれも米国で記録的なヒットとなった「ゲット・アウト」「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」と、枚挙に暇がない。そんな中ミニシアター系列のランキング上位に居続けているのが、トム・フォード監督(脚本兼任)の長編2作目となる「ノクターナル・アニマルズ」だ。本作は第73回ヴェネチア国際映画祭では金獅子賞を最後まで争い、審査員賞グランプリを獲得。英国アカデミー賞では受賞には至らなかったものの、「ラ・ラ・ランド」に次ぐ9部門ノミネートの快挙を成し遂げた。
アートギャラリーのオーナーをしているスーザンは、夫からの無関心、重なる不眠、関心のないアートに囲まれながら空虚な生活をしている。そんな日、20年前に別れた元夫・エドワードから「夜の獣たち」と称された小説が届く。その死と暴力に彩られたスリラー小説がもつエネルギーに彼女は惹かれていき、夜ごと元夫との日々を、自らの人生を回想していく――というストーリーだ。「それは愛なのか、復讐なのか。」のキャッチコピーが示す通り、本作はオープンエンドとなっている。特にラストシーンのとあるキャラクターがとる行動の解釈は観客に委ねられ、スクリーン上では明らかにされない。そのため「絵はキレイだった、けどよくわからなかった」という感想が見受けられる。
というわけで、ここではラストの解釈についていくつか考えてみたい。以下、大いにネタバレを含むため、鑑賞後にお読みください。
1:復讐と告発
作中に現れる「REVENGE」のアートが示す通り、作品の提示がエドワードからスーザンへの「復讐」であるとする見方がまず可能だ。「夜の獣たち」の作中では、主人公であるトニーをエドワードと同一の役者、ジェイク・ギレンホールが演じている。彼は 「夜の獣たち」の中でアーロン・テイラー=ジョンソン演じるサイコパス男・レイに妻を奪われ、娘を殺され、深い絶望に落ちる。これはエドワード自身がスーザンに受けた仕打ち――突然自分のもとを離れ、他の男のもとに行き、娘を堕胎される――そのものだ。スーザンの回想シーンのセリフにもあったように“自分のことばかり書く”作家であるエドワードが「君との別れから着想を得た」として、自分に起こった悲劇をメタファーに物語を書き起こし、スーザンへささげた。当然すぐれた批評家であるスーザンは、これが自分の過去に対する告発だと気付いているだろう。
そしてラストシーン、エドワードは待ち合わせに現れなかった。小説家としてついに成功した自分を、創作を忘れアートギャラリーのオーナーとして空虚な人生を生きるスーザンに見せつけ、再度の愛をちらつかせながらも置き去りにする、という「復讐」。お前は俺を苦しめたのだから、次はお前が苦しむ番なのだとでもいうように、スーザンの耐え難い悲痛に満ちた表情で物語は終わる。
2:愛と激励
もう1つ考えられるのは、エドワードの目的が復讐でない、という場合だ。ではこの物語は何を表し、何のためにスーザンに送られ、なぜエドワードは約束の場所に現れなかったのか?
「夜の獣たち」に添えられた手紙には、「君といた頃の作品とは違う」とも記されている。彼の言葉を信じるならば、本作にエドワードに起こったことは投影されていない、ということになる。ではトニーとは誰なのか?
繰り返し映画内で言及されるように、スーザンは不眠症であり、眠らない。そんな彼女を「夜行性の獣」と呼んだのはエドワードだ。つまり文字通り「夜の獣」であるスーザンこそが、トニーの正体である、と見ることが可能になる。レイに言われるがまま自らの家族を差し出し、レイのみならず旅の始まりでは配偶者に従い続けて主体性を持つことなく、行き先もわからず、電波も通じない真っ暗な道路の中で立ち往生を続ける彼は、母親の思うがまま動き、夫の明らかな浮気に対しても全く言い返すことができないスーザンそのものだ。そして彼を煙に巻き、いいように操るレイの髪形はスーザンの母親と相似している。彼は命を賭してでも、自分を追い詰める母親と夫に、自分の意志で反抗しろ――と、作品を通じてスーザンに訴えかけている。
彼が待ち合わせの場に現れなかったのは、彼の目的が再会と復縁ではなく、彼女の人生の再生を促すためだからだ。ゆえに口紅を拭い、指輪を外し、彼の好きだった頃の自分に戻ろうとする彼女――夫への当てつけとしてエドワードを利用しようとする彼女――のもとに、彼は現れない。ラストシーン、スーザンが彼の思いに気付いたかどうかもまた、言葉にされることはない。
3:喪失と再生
さて、既に発売されている海外版DVDには特典映像として、監督、キャストたちのインタビューを交え、各キャラクターを通して表現したかったもの、そしてこのラストシーンに至るまでの真意が語られている。
まずは「獣」の中でトニーを叱咤する警官のボビー。「レイを見つけ、捕まえ、復讐を果たせ」と述べる彼は「小説を書き、スーザンに自らの勝利を見せつけろ」というエドワードの内なる声だという。そしてレイはといえば、エドワードの人生を苦しめてきたもの、そして彼が立ち向かわなければいけない最大の敵である。ジェイク・ギレンホールが語るところには、「トニーとエドワードを演じ分けるのにそこまでの苦労はなかった――彼は物語の著者と、その著者が自分を投影した主人公なのだから」と、Manny the Movie Guysのインタビューに語っている。つまり製作側の考えとしては、トニー=エドワード、ということになる。
しかし彼の目的はやはり、復讐そのものではない。フォードが語るところによれば、エドワードは彼女に「ほら、これが君のしたことだ――君は僕を殺し、壊し、ぼくたちの家族を殺した――でも時がたち、僕は過去を乗り越え、素晴らしい小説を書いた。これを読んでも僕と恋に落ちないでくれ、僕たちは終わったんだから」と伝えるためこの小説を書いたという。「多くの人がこの終わりをひどく悲しいものだと思うかもしれない、でも人生には悲しいことが溢れている。そして僕たちはそこから何かを得て、進歩していくことができる」。本作のラストシーンが表すのはスーザンの再生であり、彼女を苦しめる生活は今ここで終わったのだ、と。
だが製作側の意図もまた、完成した映画の前には1つの解釈にすぎない。エイミー・アダムスが続けるように本作は、「(フォードの語りによって)誰もがこの映画から違う“何か”を感じ取る」ことのできる――「何日でも、何週間でも考え続けられる最高の」作品なのだ。ここまであげてきた解釈はいずれも反するものだが、その全てが矛盾なく成立している。監督は自身の意図を示しながらも解釈の自由を許し、結果として長く語られ続ける(であろう)芸術の構築に成功してしまった。これが本作がデヴィッド・リンチを引き合いに出されるゆえんだ。美しく妖艶でありながらもその裏にははっきりしたメッセージがあり、またそれらを巧みな演出によって覆い隠し、欺き、時には突きつけてくる。
長編映画2作目にして、多くの観客をその映像美で魅了しながら、同時に脚本で翻弄(ほんろう)してくれたトム・フォード。彼はどこまで行くのだろう?
(C)Universal Pictures
ノクターナル・アニマルズ
脚本・監督:トム・フォード 出演:エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール、マイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソン
アイラ・フィッシャー、アーミー・ハマー、ローラ・リニー、アンドレア・ライズブロー、マイケル・シーン
原作:「ノクターナル・アニマルズ」(オースティン・ライト著/ハヤカワ文庫)
2016/アメリカ/116分/PG-12 /ユニバーサル作品 配給:ビターズ・エンド/パルコ
(将来の終わり)
- 関連エントリー:「ノクターナル・アニマルズ」 ラストが“復讐”ではないとしたら
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