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アニメ映画「ソウル・ステーション パンデミック」に見る韓国の怒りと哀しみねとらぼレビュー

※重大なネタバレあり。

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 「ゾンビ」と聞いて何を思い浮かべるだろう。

 血と肉を食らう生きた死体。かまれた者も同じくゾンビとなる。倒すには脳を破壊するしかない。

 近年のゾンビブームにおいて、映画はもといゲーム、コミック、小説に至るまでありとあらゆるメディアにゾンビは登場している。走るゾンビ、草食系ゾンビ、ナチゾンビ、ゾンビな彼女と、文字通りジャンルの皮を食いやぶり、ときに姿かたちを変え、その不死身の生命力で生き残ってきた。

 しかしいつしか、ゾンビは「都市を舞台としたパニック・シチュエーション」「極限状態での人間同士の軋轢(あつれき)」 といったドラマを作るための背景と化し、その本来の社会的意義は失われつつあった。

 だがゾンビ映画の始祖、ジョージ・A・ロメロが見せたゾンビは違っていた。

 「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」を始めとする彼の一連の作品に込められていたのは、ときに1960年当時の格差社会に対する批判であり、ときに資本主義に飲み込まれ生ける屍と化したわれわれ現代人の生物的退行であり、 ときにブッシュ政権下、生きるために志願兵になるしかない貧困層とそれを貪る高所得者との階級闘争だった。

ソウル・ステーション アニメ映画「ソウル・ステーション パンデミック」 (C)2016 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & Studio DADASHOW All Rights Reserved.

 本作の監督、ヨン・サンホは前作「新感染 ファイナル・エクスプレス」(※)にてセウォル号事故、MERS感染拡大、朝鮮半島有事といったまさに今の韓国が抱えている恐怖を ゾンビ・パニックのメタファーを通してこれ以上にない説得力で描ききってみせた。

※参考:脅威 は「北」からやってくる ――「新感染 ファイナル・エクスプレス」

 その前日譚、「ソウル・ステーション」においてもその手は緩められることはない。本作に書かれているのは現在の韓国にまん延している貧困と政府不信、そしてやがて訪れる終わりだ。

 本作はケガを負った1人の老人ホームレスが街を歩いているところから始まる。 道行く人は彼を助けようとするが、彼がホームレスだと分かると途端に声をかけるのをやめてしまう。

 ここに描かれているのは「自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思うか?」とのアンケート結果において、 「完全にそう思う」がアジアワースト2位である韓国社会において、いかに社会的弱者が軽視されているかという現実だ。

 彼らを人として扱わないのは市民たちだけではない。老ホームレスを助けるよう懇願する弟に駅員たちは皆一様に面倒くさそうな顔をし、対応せず放置する。 さらに感染発生後かれらが駆け込んだ警察署でも、ホームレスである、というだけで人として扱われない。 ここで描かれているのは偏見としての差別ではなく、権力の腐敗だ。

 物語のもう1つの視点であるヘスンもまた、社会的弱者の象徴だ。彼女は売春宿を抜け出し、恋人・キウンと住む場末の安宿にて荒れ切った生活を送っている。

 そのキウンは仕事もせずに家賃を滞納し、揚げ句の果てに彼女をネットで売ろうとしている。まさに絵に描いたようなクズと笑うのは簡単だが、2017年4月発表の韓国の青年失業率は過去最高となる11.2%。彼らはその被害者の姿そのものであり、彼が夜な夜な通う深夜のネットカフェ同様、そこにあるのはもはや比喩ではない。アニメというフィルターのみを通された、極めて直接的な描写だ。

ソウル・ステーション 主人公の1人、ヘスン

ソウル・ステーション 恋人のキウンとヘスンの父

 その後、キウンはヘスンの父と合流。ゾンビに囲まれた警察署をホームレスの男性と抜け出したヘスンは彼らと合流できるのか、という本作のプロットは「新感染」と同様だ。緊急事態を通じて描かれる恋人同士、親子の絆といった人間模様が以後の推進力となっていく。第二幕にて、地上に出たヘスンのたどり着いた路地裏のバリケード。そこではゾンビからの救助を求める一般市民を「反政府暴動の扇動者」と決めつけた機動隊が安全地帯への通路を封鎖していた。2008年の米国債輸入反対デモ、2011年の自由貿易協定反対デモなど、韓国、とくに大統領府のあるソウルは政治デモの多い都市だ。2016年、朴槿恵大統領の罷免を求めた100万人集会は記憶に新しいところだろう。劇中、ここで彼らに使用される催涙弾と放水銃は機動隊の常とう手段だ。

 さらに男性ホームレスは機動隊の銃弾に倒れる。家族もなく、帰る家さえなくしていた彼は恐らく米韓FTAでコメの値段が暴落し、土地を追われソウルに流れついた農民の典型的なモデルケースだろう。

 彼には明確なモデルがいる。2015年11月14日、民衆総決起大会に参加した農民のペク・ナムギ氏は韓国警察の放水銃に撃たれ以後10カ月、意識が戻ることなく亡くなった。警察権力はその責任を取ることなく、責任者はいまだに誰1人処罰どころか内部懲戒すら受けていない。

 彼の死後、バリケードを超え機動隊に襲い掛かる死者たちは既にデモのメタファーではない。民衆の中に燃えたぎる爆発寸前の怒りであり、深い悲しみだ。

 続いての第三幕では舞台は一転して高級モデルルームに移り、ヘスンは恋人・キウンと再会する。

 多くのゾンビ映画において、物語は世界の終末と対比した人間関係の修復によって完結する。 本作も「新感染」に見られたように、父と娘の再会と新天地への脱出によって物語は集結する、ように思えた。

※以下、ネタバレ含む

「ソウル・ステーション パンデミック」本編映像

 本作はそれを良しとしない。彼は父ではなく売春宿の元締めであり、彼女の借金を回収するためにヘスンを追い続けていた。彼はキウンを殺し、ヘスンの暴行を試みるもヘスンは既に感染しており、彼もまた死亡する。

 この一片の救いも用意されないシナリオには、監督の決意が見受けられる。ジョージ・A・ロメロはその出世作「ゾンビ」において、当初は主人公たちを全滅させるつもりだった。強大な資本主義の象徴であるショッピングモールを前に世界は崩壊し、人々は皆自らの意思をなくしたゾンビとなる。逃げ場も、生き残る術もこの世界のどこにもない。

 ヨン・サンホはそれをやり遂げた。盛者も貧者も、政治家もホームレスも、例え主人公であろうと、みな平等に終わっていく。「このままでは駄目だ」という嘆きが一点の容赦もなく展開された本作は、まさしく彼の韓国社会に対する強烈な問いかけである。

 ゆえにヒロイックな活躍、下世話な人間ドラマ、問題の解決はここにはない。そしてゾンビ映画とはそもそもそういうものなのだ。 やがては死者で埋め尽くされるこの世界で、われわれは何をすべきなのか? 本作のメッセージはあまりにも悲痛で、重い。

将来の終わり

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