家に帰って、ベッドの上で黒いフルートケースを開く。フルートはいくつかのパーツに分解され、薄いビニールに包まれた状態で横たわっていた。直接手を触れるのが怖くて、付属品の布越しにえいっと掴んだ。ぴかぴか輝くフルートはどこからどうみても素敵で、息を吹きかけわたしなんかの唾液で汚すのがもったいないくらいだった。音は出せないけれど、それっぽく構えてみて空気穴を指でぱこぱこ押さえるだけで幸せな気分になる。
フルートが吹けるわたしは仕事もうまくいっており、小説だけでなくエッセイもばりばり書いて、ふと疲れたときには人知れずフルートで何かいい感じの曲を演奏したりして日々を過ごしていくに違いない。公私ともにうまくいく。わたしはこの笛で人生を変えて行くんだ。音楽はわたしを明るい未来に導いてくれる。
部屋の中でステージっぽい場所を探してうろうろしていると、姿見に映る自分と目があう。鏡はうっすらと汚れていた。鼻セレブに手を伸ばしたけれど、高いティッシュをそんな用途で使うのは忍びなくて、道端で配っていたポケットティッシュで拭う。
ちょっとだけ眩しくなって目を細めた。外から差し込んだ明かりが鏡に反射して銀色に光る。すぐ外を走る電車の車内灯だ。ぶーん、ぶーん、と鈍い音が続く。二重窓の中まで侵入してくる車両の音。
カーテンを掴んで膝立ちになり、線路の方を見つめた。もう帰宅ラッシュの時間は過ぎただろうか。社会で働いてるひとたちは、こうやって家に帰っていくんだな。目をこらすと部屋の中からでも電車の混雑具合がよくわかる。ところであの電車に乗っている人たちからは、この部屋で小さくなっているわたしの姿が見えたりするんだろうか。わたしの方からは、あの人たちの姿が結構よく見える。
そんなことを考えていたら、我にかえった。
鼻セレブをケチっている女が、なぜ17万円もするフルートを買っているのだろう。だいたい、吹けないし。フルートを買うのは悪いことじゃない。吹けるようになったら楽しいだろう。けど、買うのは今じゃないだろ。わたしに必要なのは仕事と衣食住だ。間違いなくそうだ。17万円もあれば、当分は孤独に悩まず友達にだって会いに行けるぞ。
そのことに気づいた途端パニックになり、なんとかして銀の笛を返品した。返品するしかなかった、のに、悲しくて、体がどっと重たくて、フルートを吹いている動画をYouTubeで見ながらしばらくベッドから起き上がれなかった。家賃や光熱費や食費、生活を見失う自分の愚かさに嫌気がさしたし、必要なものの優先順位をつけられない自分は、何一つ素敵なものを手に入れられないまま終わっていくんだろうと思った。
お金を使って幸せになりたいし、お金の力で素敵な自分になりたい。なのに、自分に必要なものがわからなくなるときがよくあるし、本当に買いたいもの、買うべきものが何かよくわからない。特に不安で目が曇っているときはそうだ。
あれから歳を重ねて、食費に困っているのにフルートを買うほど我を見失うことはなくなったけれど、今でもたまに失敗はある。2万円以上のものを買うときは今でも怖い。けれど、臆して財布の紐を硬くするのは絶対に嫌だ。大枚を叩くことでしか得られない世界もあるはずだから、必要なところでばーんと勝負できるような心持ちでいたい。後悔しないお金の使い方ができるように、どうにか指針を持てたらな、と思っている。
ちおる(片瀬チヲル)
小説家。既刊に『泡をたたき割る人魚は』『遅刻魔クロニクル』。スマートフォンゲーム「八月のシンデレラナイン」公式サイトのノベルなども担当。
※本稿はnote掲載のエッセイ「お金の力で幸せになりたい」を転載しました。
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