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なぜ「ドラクエV」はここまで「語られる」のか? “ビアンカフローラ論争”がいつまでも終わらない理由と「ドラクエV」というゲームの巧妙さ

「ドラクエV」とは、ストーリーで発生した「欠落」を、プレイヤーがゲームシステムによって補間するゲームである。

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 映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」の原作ということで、にわかに注目を集めている「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」。映画が公開された後は、セールの効果もあってかなり長い期間、アプリストアのランキング1位に居座り続けており、あらためてその人気に驚かされました。

 シリーズの中でも特に「名作」との呼び声が高い同作。だからこそ映画の原作にも選ばれたわけですが、一体「ドラクエV」の何がそこまでユーザーを引きつけるのか? 現役ゲーム開発者であり、ブログ「枯れた知識の水平思考」「色々水平思考」の管理人、hamatsuさんによる、原作「ドラクエV」レビューをお送りします。


ドラゴンクエストV スマートフォン版「ドラゴンクエストV」公式サイト

ライター:hamatsu

hamatsu プロフィール

某ゲーム会社勤務のゲーム開発者。ブログ「枯れた知識の水平思考」「色々水平思考」の執筆者。 ゲームというメディアにしかなしえない「面白さ」について日々考えてます。

Twitter:@hamatsu



なぜ「ドラクエV」はここまで「語られる」の?

 「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」が公開されて以降、この映画についての多くの言葉がネットを飛び交っている。

 当サイト、ねとらぼでもかなり批判的なレビューが掲載され、大きな反響を呼んでいる。肯定的な評価をする論者も居いるものの、おおむね批判的な評価が大勢を占めているとも言ってしまっていいだろう。



 筆者も劇場で鑑賞したが、ここからさらにこの映画に対して何らかの評価を付け加えるつもりはあまりない。個人的には映画中で繰り返し擦り倒される「序曲」を始め、使い所を間違えまくる音楽の扱いの雑さにはかなりゲンナリさせられたものの、全く楽しめなかった訳ではないし、最後の大オチに関しても既にある程度は承知の上で望んだので、まあこんなものかと受け流してしまった。

 今回この記事であらためて考えてみたいのは、「ドラゴンクエストV 天空の花嫁」(以下ドラクエV)についてである。

 なぜ「ドラクエV」はここまで「語られる」のだろうか? ユア・ストーリーだって「ドラクエV」の映像化でなければここまでの反響はなかったのではないだろうか。

 結論を言ってしまえばその最大の理由は、プレイヤーが自分の意志で相手を選べるという最重要イベント、「結婚」にあることは間違いないだろう。1992年に「ドラクエV」がリリースされて以来2019年の現在まで続く、ビアンカフローラ論争の始まりである。

 ちなみに筆者は「ドラクエV」を遊ぶときは、必ずビアンカを選んでしまう。2周目以降はフローラ、DS版のリメークで追加されたデボラを選ぶという考えも浮かびはするものの、結局ビアンカを選んでしまう。逆に何度やってもフローラを選んでしまうという人もいるだろう。



 ビアンカフローラ論争が四半世紀以上に渡って続く理由はこんなところにある。「ドラクエV」は結婚相手を「選べる」ゲームなのではない。自分が思いを込めて決めた相手しか「選べない」ゲームなのである。 だからどっちもそれぞれ良かったね、なんてヌルーい結論にはいつまでたっても至ってくれないのだ。なぜ「ドラクエV」はそのような熱を帯びた、一種のカルト性を孕んだゲームなのか、あらためて考えてみよう。


岩を押し続ける簡単なお仕事

 十年間岩を押し続けるってどんな感じなんだろ?

 「ドラクエV」について考え始めるとどうしてもそのことについて考えてしまう。

 このゲームは主人公の幼少期から始まり、やがて青年へと成長し、最大のイベント「結婚」を迎え、2人の子どもを授かり、さらに成長したその子どもとともに冒険の旅に出るという親子3代にわたる長大な「時間」の流れを描く物語である。

 そのため、ゲーム中では2回、大きな時間経過が起きるイベントが存在する。

 ネタバレになるので詳細は控えるが、ゲームというメディアにおいて自分の分身たるプレイヤーキャラクターが、子どもから大人になってしまうほどの変化、プレイヤーが知り得ない長い時間を経過させてしまうということはなかなか危険な行為である。これまで一体感を築いてきたはずのプレイヤーとゲーム中の主人公との間に乖離が生まれる恐れがあるからだ。

 特にドラゴンクエストシリーズのような、プレイヤーとゲームキャラクターの間の一体感を重視してきたゲームであればなおさらだ。このようなゲームにとって10年単位の大きな時間経過を発生させるということはプレイヤーとの一体感を阻害する、かなりリスクの高い行為と言ってしまってもいいだろう。


ドラゴンクエストV スタート時点ではまだ主人公はまだ子ども(ストアより)

 だが、「ドラクエV」が傑出したタイトルである理由はそのようなリスクの高い行為をむしろ逆手にとって利用している点にこそある。

 長大な時間経過が一瞬にして過ぎてしまい、その間に起きたことをプレイヤーが知らないなら想像に委ねればいい、時間経過以外にもさまざまな「欠落」「隙間」を用意した上で、それをプレイヤー自身が埋めることができるようにゲームを設計すれば、逆にそれはゲームの推進力になる。だからこそ、このゲームにおける2回の時間経過イベントはそのどちらもが呆気に取られてしまうほどに一瞬で色んなものを失い、大小さまざまな「行間」を発生させる衝撃的なイベントになっているのである。

 ストーリーで発生する「欠落」や「隙間」「行間」をゲームシステムによって補間するゲーム、それが「ドラクエV」なのだ。

 システム面での大きな特徴である「モンスター仲間システム」にしても、ただ単純にモンスターが仲間にできれば面白そうだから導入したということ以上に、いろいろあって家族を失った主人公があらためて仲間、家族を再構築するという、ストーリーを補完する意味がある。


ドラゴンクエストV 倒したモンスターを仲間にできる「モンスター仲間システム」

 そしてここまで来てしまえばもう説明は不要だろう、このゲームにおける「結婚」イベントに多くの人が思い入れてしまう理由もまた、「ドラクエV」というゲームに巧みに仕込まれた「欠落」にこそある。

 プレイヤーがそれぞれの形、それぞれの思いによって過去、そして未来の時間を埋められるように巧みにシナリオ、ゲームシステムが設計されているからこそ、単にゲーム中における新しい仲間の追加ということ以上にユーザーが熱を込めて思い入れてしまうのである。つまりビアンカフローラ論争は永遠に終わることはない。


ドラゴンクエストVドラゴンクエストV ビアンカとフローラ、どちらを選ぶかの論争は永遠に続く……(DS版ではさらにもう1人追加されている)

 ちょっとネタバレになってしまうが、青年期初期の長く苦楽を共にしたはずの友人とは意外にサクッと別れ、故郷はズタボロにされ、せっかく旧友に再会したと思ったら村八分を食らい、そしたら別れたはずの友人はサクッと結婚し……っていう主人公の心を削りにくる畳み掛けるような展開って本当に……堀井さん……!

 ちなみに我ながら気持ち悪い話なのだけれども、筆者がビアンカしか「選べない」のはビアンカ以外の相手を選んだ時に、その後もビアンカが山奥の村に存在し続けるという事実に耐えられないからなんですよ。そんな未来は要らないっていうか。

 「ドラクエV」は恐らくもっとも時間がたっても「古びない」タイプのゲームで、だからこそ映画化の原作としても選ばれたのではないかと思うのだけど、その理由はこのゲームがユーザーそれぞれの思いを載せる「器」として優れているからだと筆者は考える。だからこそいまだに岩を押し続ける暮らしに思いをはせてしまうのだ。


ドラゴンクエストは「虚無」を許容する

 ここからは余談なのだが、この記事を書くにあたって、久しぶりにドラクエV(DS版)をプレイしてみてあらためて気付かされたことがある。それは、カジノが出現するタイミング、絶妙すぎ! ということだ。

 いろいろなことがあって、さまざまなものを失ってボロボロだけどどうにか新しい旅を始めようかと立ち上がった主人公が初めて訪れる町、オラクルベリーにカジノは存在する。つまりストーリー的にはもっともシリアスに盛り上がったタイミングでカジノに行けるようになるわけである。


ドラゴンクエストV ストーリー的にはかなりどん底なタイミングで出てくるカジノ

 で、まあそりゃ目の前にカジノがあったら、行くじゃないですか。スロやっちゃうじゃないですか。リアルに徹夜しますよね。ええ。

 結果としてメタルキングの剣4本ゲットしたとしても、40過ぎた大人がゲーム中の架空のスロットで徹夜して貴重な休日を浪費する。まあ率直にいって「虚無」と言ってもいいだろう。

 でもこれこそがドラクエだよなとも思ったりするわけである。ストーリー上でもっとも重くシリアスなタイミングでこそ、能天気で浮かれた町に主人公を行かせて本筋そっちのけでカジノで遊べるようにしてしまう。世界を救うとか、仲間を探すとかどうでも良くなって有り金ぶっこんでカジノでスロットしちゃう。このシリアスとしょうもなさの振れ幅こそがドラクエだよなと。

 久しぶりにプレイする「ドラクエV」は相変わらず面白かったが、同時に歳を重ねることで明らかにパパスや結婚後の二度目の時間経過後の展開に思い入れる自分がいたりして、これまでとは違う面白さもまた存在した。だが、なんだかんだでやっぱりスロットで徹夜しちゃうしょうもない自分とそれを許容するドラゴンクエストの懐の深さが一番印象に残った。

 「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」では後半のある展開で、「虚無」という言葉が主人公に投げかけられ、主人公はそれを否定する。しかし、筆者はその「虚無」という言葉を肯定する。「虚無」すら飲み込み許容するエンタテインメント、それが筆者にとってのドラゴンクエストである。


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