『火ノ丸相撲』における刃皇はなぜ少年漫画界でもまれに見る名ラスボスだったのか:今日書きたいことはこれくらい
「不倒城」しんざきさんによるコラム、第12回は『火ノ丸相撲』のラスボス「刃皇」について。
出版社との画像使用契約期間が終了したため、一部画像を削除していたしました(2020年12月23日)
今から、「『火ノ丸相撲』の刃皇ってめちゃくちゃ良キャラだったし、すごい面白い書き方をされた最高のラスボスだったよな!!! なあ皆!!!」という話をしたいと思います。よろしくお願いします。
皆さん、「少年漫画のラスボス」といわれてどんなキャラを思い付きますか?とにかく強いラスボス、かっこいいラスボス、悲しいラスボス、憎らしいラスボス。世の中色んなラスボスがいますよね。
展開上の話をしても、「誰がどう見ても議論の余地がない完璧なラスボス」もいれば、「当初ラスボスっぽかったけどなんか無理やり気味にお話が続いてしまったので結果的にラスボスじゃなくなってしまった」みたいなキャラも、「全然ラスボスっぽくないけど一応物語の最後に戦った相手ではある」みたいなキャラもいます。『ジョジョ』みたいに、話の区切りがはっきり分かれた漫画のラスボスってどう扱うの、といった問題もありますね。
ここではいったん、「物語のフィナーレを飾る主要エピソードにおける、主人公(たち)が最後に戦う強敵」というのを「ラスボス」のざっくりした定義にしてみましょう。
例えば『ダイの大冒険』におけるバーン様。『スラムダンク』における山王高校、『うしおととら』における白面の者、『寄生獣』における後藤、『封神演義』における女カ、『鋼の錬金術師』におけるお父様。微妙な定義揺れは避けられないとはいえ、このあたりはまず「代表的なラスボス」といってそれほど問題が発生しない面々でしょう。
一方、『るろうに剣心』のラスボスは縁じゃなくて志々雄だろとか、『北斗の拳』のラスボスはラオウだろとか『ドラゴンボール』のラスボスはフリーザだろとか、そういう議論も発生するのかもしれません。ここではあんまりそういった議論には立ち入りませんが。
何はともあれ、「その物語がどう終わるか」という問題と、「ラスボスの立ち位置」という問題が密接に関連していることは確実です。特にバトル系やスポーツ系の漫画において、「その漫画は素晴らしい完結を迎えたか?」というのは二アリイコール「ラスボスの在り方は見事だったか?」と言い換えさえできる、と私は考えているわけなのです。ラスボス重要です。
ところでここに『火ノ丸相撲』という漫画があります。
『火ノ丸相撲』は、川田先生によって2014年から2019年まで『週刊少年ジャンプ』に連載された、言うまでもない相撲漫画の傑作です。大きく「学生相撲編」と「大相撲編」の2つに分かれておりまして、その熱さ、描写の迫力、キャラクターの立ちっぷり、物語のスピード感から展開の出し惜しみのなさまで、全てひっくるめて素晴らしいの一言でしか表現出来ない漫画でして、もし未読の方がいらしたらぜひ読んでいただきたいと思うばかりなのですが。
この火ノ丸相撲の「大相撲編」に、とある重要なキャラが登場します。
その名は「刃皇」。モンゴル出身、優勝回数は44回を数える現役最強の横綱で、国民的な大横綱だった日本人力士「大和国」を引退に追い込んだ力士でもあります。作中世界では西の横綱が存在せず、刃皇はただ一人の横綱です。
この刃皇関こそ、「火ノ丸相撲」のフィナーレを華々しく飾った本作のラスボスであり、かつさまざまな少年漫画を思い起こしてもぱっとは類型が思い付かないほど、特殊な立ち位置と特異な役割を見事にこなし切った、すさまじいほどの「名ラスボス」だったのではないかとしんざきが考えているキャラクターなのです。
“絶対的な一人横綱”として描かれた刃皇
まず、作中の刃皇の挙動を簡単に追いかけてみましょう。
刃皇は学生相撲編でも一度登場しており、主人公である「鬼丸」こと火ノ丸にけいこをつけてくれているのですが、まだこの時点では本人のキャラクターについて細かく描写されません。本格的な登場は大相撲編から。
絶対的な一人横綱として相撲界を背負う刃皇関は、作中で44回目の優勝を決めた直後、なんと泣きながら「次場所優勝したら引退する」と宣言してしまいます。
自分に抗し得るほどの力をもった力士が、いつまで待っても現れない。角界を一人で背負っているのに、刃皇に対しては「相手が弱いから優勝できている」などと揶揄(やゆ)する声が投げつけられる。
「相撲がかわいそう」「相撲を嫌いになりたくない」というのは刃皇の本心ですが、その言葉は刃皇を追いながらも力が及んでいなかった若手力士たちを強烈に奮起させる挑発として動作します。童子切、草薙、三日月宗近といった火ノ丸の学生時代のライバルたちは、決戦の舞台となる九月場所を前に、切磋琢磨して刃皇に届く力を身に着けようとします。ここでは、火ノ丸を含めた有力な力士たちに、大和国自らがけいこをつける描写もあります。
一方当の刃皇関は、火ノ丸の師匠筋である元横綱・駿海さんの入院を端緒に、火ノ丸と個人的な面識を持つことになります。自身の奥さんと一緒に、鬼丸やヒロインのレイナと夕飯の卓を囲んだ刃皇関は、火ノ丸に対して「相撲に対する愛」を語ります。
そして迎えた九月場所。火ノ丸は、なんと2日目という序盤に刃皇関と相対することになります。さまざまな事情から、自分の命すら顧みない戦い方である「無道」の相に堕ちかけていた火ノ丸に対し、この時刃皇関は「己に価値を感じない者の捨て身など全く怖くない」という痛烈な言葉を投げかけ、火ノ丸を破ります。これによって、一時火ノ丸は虚脱状態に陥ってしまいます。
しかしその後もさまざまな力士と激戦を繰り広げた刃皇関は、火ノ丸の兄弟子である冴ノ山や、火ノ丸と同世代の国宝・草薙の必死の食い下がりもあり、優勝の行方は最終日の優勝決定戦、13勝2敗で並んだ4人の力士の闘いに委ねられます。その中には、敗北から立ち直った鬼丸こと潮火ノ丸の姿もあったのです。
類を見ない多面性と、それでいてブレない軸足
……と、ここまでがざっくり、最終戦に至るまでの作中刃皇関の流れです。実際の作品の迫力は、もちろんこの文章だけでは到底伝え切れない質量ですので、ぜひ実際に読んでみていただきたいところなのですが。
しんざきが考える刃皇というキャラクターのものすごさは、
- キャラクター自体に多面性(ある意味ではキャラのブレ)が内包されている
- なのに全体としては完全に一貫しており、しかもラスボスとしての立ち位置は最後までビタイチブレていない
- ラスボスだけでなく、物語上のさまざまな役割を一人で担いまくっている
- 最後の最後まで全く潔くなく、敗北を糧にさらに強くなることを決意している
――といった要素で表現することができます。
まず第一に、刃皇関ってものすごーーーく多面性があって、とにかくさまざまな側面を見せてくるキャラクターなんです。恐ろしく強くて、ときには粗暴で不真面目、ときにはわがままで気まぐれ、かつものすごく負けず嫌い。けれどときには気さくで緩くて、ほとんど面識もない相手の相談ごとに気楽に応じたりする。ときには横綱としての威厳を完全に発揮して、相手を教え、導く。
これが、ただ「性格上の多面性」だけでなく、「物語上の役割の多面性」でもある、というのが1つ目の重要なポイントです。
例えば、九月場所2日目での刃皇の立ち合いは、完全に「主人公を教え導く師匠ポジション」のそれです。
無道に堕ちかけていた火ノ丸に対し、不安と疎外感に襲われていたレイナの言葉を聞き届け、刃皇は「鬼退治といこうか」と決意します。そして、激しい相撲の中、火ノ丸の強さや意気を認めつつも、はっきりと「そのやり方は間違っている」と理解させ、正面から火ノ丸を打ち破る。ここでの刃皇の立ち位置は、疑いなく「師匠」兼「対戦相手を救済する主人公」ポジションです。
この一戦は、確かに火ノ丸にとって、「自分が本当に行くべき道」を示すための極めて重要なターニングポイントになりました。
相撲という競技の特徴として、最終戦となる千秋楽・および優勝決定戦の前にも、刃皇はさまざまなキャラクターの前に立ちふさがります。ここではいわば刃皇は「物語上の中ボス」として動作しており、ときには圧倒的な力を見せつけ、ときには火ノ丸のライバルたちの成長に驚きます。刃皇に土をつけたのが、火ノ丸の兄弟子である冴ノ山と、火ノ丸の最大最強のライバルだった草薙の2人だったというのも大変に熱い。
一方で、刃皇はゆるっゆるにコミカルな側面も、とんでもなくわがままな側面も全く隠しません。そもそも引退宣言にしてからが、本人には真剣な思いがあったとしても、「お前らは歴代2位争いでもしてればいいよ! バーカ」という、とても横綱の発言とは思えない傍若無人な発言です。けいこ中、大包平に「飲み過ぎです」と指摘されれば「あぁ? うるせえバーカ」と反発し、場中でも「憐憫の相」や「恍惚の相」といった数々の顔芸を繰り出します。
火ノ丸とレイナの(ある意味)キューピッド役を務めたことも特筆するべきでしょう。駿海師匠の見舞いに来た彼が、たまたま出会った火ノ丸・レイナと卓を囲んだのは上述の通りですが、その時の表情も「Wデートとしゃれこもうではないか!」というゆるゆるっぷり。まあ実際には刃皇の奥さんの存在が大きかったんですが、これを契機に火ノ丸とレイナの仲が一気に進展したことは間違いありません。
これ、物語の役割の話から言うと、
- 主人公やライバルたちの覚醒・パワーアップのきっかけ作り
- 主人公に対する直接的な教導
- 主人公の恋愛進展のトリガー
- 顔芸を始めとしたコメディーリリーフ
- 最終決戦に至る戦いを熱くするための中ボス戦
- ラスボス
――を、全て一人でやっちゃってるようなもんですよ。ちょっと物語上の存在感が全部盛り過ぎじゃありませんか?
これだけ盛りだくさんの役割を作中で全く破綻なくこなしてしまう「ラスボス」って、いろんな漫画を見渡してもちょっとなかなか類を見ないんじゃないでしょうか。
いや、もちろん、九月場所の中途中途では他にも熱い戦いは山ほどありましたし、他キャラも十分活躍してはいるんですが、それでも刃皇関があまりにもマルチタスクな活躍をしてしまっているがために、高校時代のきら星のごときライバルたちの存在感が、多少なりと食われてしまっていることは正直否定出来ないでしょう。
刃皇が非常に多面的な人物であり、かつその多面性を武器にすらしているというのは、童子切や大包平も立ち合いを通して指摘しているところですが、その最たる側面が「刃皇裁判」。刃皇が考え事をしたり、対戦相手の内面と語り合うときの描写なんですが、複数の刃皇が心象世界で話し合いをしつつ、ときには相手を「被告」として実際に言葉を交わしたりと、正直やりたい放題です(映画館の席にたくさんの刃皇が座っている「刃皇シアター」というバージョンもあり)。
しかし、これだけの多面性を見せ、これだけさまざまな役割を担った上でも、刃皇というキャラクターそれ自体、及びラスボスとしての軸足は本当にただの1ミリもブレていないのです。
ここが本当にすごい。
これはなぜかというと、刃皇関の根幹がどんな瞬間も「相撲に対する愛」であり、あらゆる挙動の根底にそれがあるから。彼、相撲に対するスタンスだけは最初から最後まで「愛」の一言であって、そこに関する限り本当にどこにも矛盾がないんですよ。一切ブレない。
自分の愛の深さを絶対に疑わず、対戦相手にも自分自身にも徹底して「相撲への愛」を求める。だからこそ強いし、だからこそ壁としてぶ厚い。「本当に相撲を愛しているなら相撲で幸せになれい!!」は、大相撲編全体を通しても屈指の名言だと思います。
そして、数々の熱戦を経て、物語は刃皇と火ノ丸の最終戦に至るわけです。
火ノ丸によって救済された刃皇
『火ノ丸相撲』という漫画は、誇張なく「熱戦の宝庫」とでもいうべき漫画であって、主人公が絡む相撲も絡まない相撲も、本当に山ほどの名勝負がちりばめられています。
しかし、そんな名勝負ぞろいの火ノ丸相撲全編を見渡しても、この漫画のまさに「千秋楽」を担った最終戦、鬼丸×刃皇は、まさしく作品中でも最高峰の名勝負だったといっていいでしょう。
関取の四股名が刀剣の名前で統一されている中、まさに「刀剣たちの王」という四股名を背負っている刃皇。名実ともに最強の横綱である自身を「現人神」となぞらえてはばからない刃皇に対して、火ノ丸は「神に抗う鬼神」として立ち向かいます。
激戦の中、体の小ささ故に「大きな相撲と小さな相撲、どちらも備えている火ノ丸は、自分よりも相撲を堪能しているかもしれない」と火ノ丸を捉えた刃皇の「ずるいぞ、貴様っっ!!」という言葉が、また本当に自分の相撲愛をかけらも疑っていない発言でとてつもなく熱い。
そして、最終戦でのこのコマだけは、本当に一コマで刃皇というキャラクターを表現している、すさまじい名シーンだと思うのですが、モンゴルで青空の下相撲をとっていた若き日の刃皇の「楽しい…」という一言。
最後の最後まで、誰よりも相撲を楽しみ続けた刃皇の、最高の原体験にして心象風景がこれだったのです。
これが、このシーンが、「相撲を嫌いになりたくないから」という理由で引退しようとした刃皇に対して、火ノ丸が引き出した最高の一言だった、という時点でこの最終戦を読んでいるだけでもう本当に泣きそうになる一コマなんですが。
つまりこれ、ある意味では救済の物語なんですよ。相撲を誰よりも愛していたがために、自分についてこれる者たちがいなくなってしまった刃皇が、火ノ丸によって救済された瞬間。火ノ丸との純粋な勝負によって、何よりも楽しかった、面倒なことを何一つ気にすることなく、本当に単純に相撲を楽しめていたころに立ち戻ることができた。
火ノ丸を無道による煉獄から救済した刃皇が、今度は火ノ丸によって救済された。ここに至って、首尾一貫して「最強のラスボス」だった刃皇は、「救済されたラスボス」にすらなった訳です。川田先生の描写、本当に熱すぎる。
そして、激戦のあと、潔く負けを認めるかと思えば最後はこの表情。
「最強のラスボス」である刃皇の「俺はまだまだ強くなるぞ」っていうセリフ、素晴らしいですよね。誰よりも相撲が好きで、誰よりも負けず嫌いだからこそ、ここまで強くなることができた。そして、後進に道を譲るなんてかけらも考えず、負けた次の瞬間には「次はどうしてやろうか」なんて執念を燃やしている。
このわがままさ。この負けず嫌い。これぞ火ノ丸相撲のラスボス、刃皇。
こうして、何から何まで激熱だった最終戦、そして「火ノ丸相撲」という漫画は幕を閉じるのです。
前述しましたが、私は「ラスボスの在り方が見事だったか?」という言葉は、「その漫画が素晴らしい完結を迎えたか?」という言葉とほぼ同義だと考えています。そういう点で、火ノ丸相撲という漫画は、これ以上ないくらいのグランドフィナーレ、素晴らしい形での完結を迎えたよなーと。心からそう考えているわけです。
まとめ
ということで、長々と書いてしまいました。
最後に私が書きたかったことを簡単にまとめてみます。
- バトル漫画・スポーツ漫画におけるラスボスの在り方は、その漫画のフィナーレの見事さとほぼ同義
- 刃皇関は「性格・物語上の多面性」と、「それに対する首尾一貫したラスボスとしての立ち位置」を両立したまれな名ラスボス
- 火ノ丸と刃皇の最終戦は、なにからなにまで作中最高、作中最熱といってよい名勝負
- ただし、個人的な作中最高の名言は、二人のキャラによって発せられた「何を笑っていやがる」です
- 沙田戦超好き(学生相撲編でも大相撲編でも)
- それはそうと、天王寺咲さんがお気に入りキャラだったのでもうちょっとだけ出番があるとうれしかったなあというのが唯一の不満点
- 咲さんかわいいですよね
- なにはともあれ『火ノ丸相撲』は超面白いのでもし未読の方がいらしたらぜひ読んでみてくださいよろしくお願いします
こんな感じになるわけです。よろしくお願いします。
今日書きたいことはこれくらいです。
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