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【1億部突破を勝手に記念】『鬼滅の刃』はなぜここまで人々を引き付けたのか――ねとらぼ編集部&ライター座談会(2/2 ページ)

やいのやいのトークしました。

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「ジャンプ漫画」としての鬼滅

イッコウ (通りすがり): 『鬼滅』のヒットはアニメがあってからこそなんだろうというイメージだったんですけど、皆さん漫画単体を評価している感じなんですね。

戸部: 僕も『鬼滅』を単体で評価できているかというとそうでもなくて、どうしても「ジャンプの中の『鬼滅』」として評価している節はありますね。

イッコウ(通りすがり): 『鬼滅』はジャンプの中で異質に見えたということですか?

戸部: 僕は『ジョジョ』『ハンター×ハンター』みたいな頭脳戦の方が好きなので、正直なところバトル漫画としての『鬼滅』にはあまり惹かれていないんです。「能力の駆け引き」「手の内を探り合う心理戦」とか何もないので。むしろ「ジャンプのバトル漫画」というスタイルで自分の哲学を描こうとする作者の姿勢そのものが好きでした。また、そんなバトルを作画と演出の力技で解決してしまったアニメはすごい。

高橋(通りすがり): アニメ作ったufotable、同社を育てたFateは偉大。2016年の初連載(当時26歳)から4年、ここまでの記録を叩き出したのは本当にすごい。漫画家ドリームを体現している。

 アニメ開始前の累計350万部(2019年3月頃)には「もうちょっと売れていいのでは」と思っていたけど……今の累計1億部というのは驚異的。鳥嶋さんがヒットの半分は偶然、残り半分が作者と編集の成果(比率は8:2)と言っているけど、これが「時代に愛される」ということなのかもしれないですね。

青柳: 「ジャンプ漫画の中の『鬼滅』」ということで、他の作品との関連や影響も聞きたいです。吾峠先生は好きなジャンプ作品として、『ジョジョの奇妙な冒険』『NARUTO』『BLEACH』を挙げています。

高島: 「人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」というポリシーは『ジョジョ』の「黄金の精神」的ですよね。鬼殺隊の頭領である産屋敷の「永遠というのは人の想いだ 人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」という言葉が本作のメインメッセージで、それを全否定して立っているのが無惨という構図。

戸部: 「無惨=DIO」という声をネットで見たことがありますが、むしろディアボロや吉良吉影だと思う。殺しを楽しんでいる描写は一切なくて、マジでアイツはただ自分が長生きすることしか考えてないんですよね。ムカついたら殺すけど。

高橋(通りすがり): カーズ様が一番近いんでは。

高島: 求めているのは「永遠の絶頂」であって、上りつめ続けようとする向上心みたいなものはない……。無惨様見てからDIO見るとめっちゃ向上心を感じますね。

戸部: だから鬼殺隊が被害を拡大させてるともいえる。コミックス21巻に収録されている炭治郎と無惨のやりとり――「異常者の相手は疲れた いい加減終わりにしたいのは私のほうだ」「無惨 お前は 存在してはいけない生き物だ」――からも伝わる通り、鬼殺隊がいなければ無惨は兵隊を増やしたりしないわけで、それこそ青い彼岸花が手に入ったら隠居暮らしですよ。

青柳: 『ジョジョ』を精神的に継承した作品である……ということを考えると、『鬼滅』も「人間賛歌」のようなメッセージがあるとしてよいんでしょうか?

高島: 「人間賛歌(鬼賛歌ではない)」という感じだと思います。やはり人間/鬼の線引きが相当シビアかつ本質的なのは見逃せないかなと。『ジョジョ』で意識されていた善/悪の両義性、反転可能性みたいなものは、鬼滅にはないと思う。同情はするけど殺すのは既定路線だし、那田蜘蛛山のお母さん鬼は炭治郎の追悼で気持ち的には話がまとまりますけど普通にうかばれない。

 連載中のジャンプ漫画だと『僕のヒーローアカデミア』は「善悪が社会のありようで決定されてしまうのって恣意的じゃない?」という姿勢が顕著ですが、『鬼滅』は「人を殺している鬼は殺す」が絶対既定路線というか、そこの差が本質的になっているように見えます。『ヒロアカ』の場合は関係のない第三者(=公共を担うものとしてのヒーロー)が主役なので「善悪とは何か」という話になるんですけど、鬼殺隊ってなんだかんだ公共ではなくて遺族集団なので、善悪問題にならない。

高橋(通りすがり): 『鬼滅』のプロットは、ほぼ『ジョジョ』1&2部だと思う。呼吸法で吸血鬼に対抗する、吸血鬼の元凶(柱の男)は究極生命体を目指していて、太陽光が弱点――。大正という時代設定も1部と2部の中間。ただ『ジョジョ』が4〜6部で哲学っぽくなったのに対し、『鬼滅』は1〜3部の勧善懲悪にとどまっている。そのわかりやすさがヒットに繋がったのかも。

 あとラストダンジョンの無限城(16巻〜)を読むと、『NARUTO』の影響を感じますね。同作では終盤に禁術・穢土転生で、歴代の猛者ほとんどが“敵キャラとして復活”した。漫画的にも禁術なんではとびっくりしたけど、対処法に「封印する」だけでなく「成仏させる」を追加して、因縁のあるキャラ同士を戦わせる→過去エピソードを挿入→未練を解消→封印or成仏。キャラが深まる&漫画の幅が広がるの一石二鳥を実現した。我愛羅と父親(58巻収録 )のエピソードとか最高。

 ジャンプの長寿漫画(60巻以上)で終盤をきれいに描いたのは『NARUTO』が初めてだと思っているけど、その終盤を編み上げた技を『鬼滅』は使っているので、密度が濃くなったんだと思う。

戸部: ちょっと話はズレますが、今の「ジャンプ」は「ジャンプの当たり前」とされていた慣習に疑問を持ちながら育った世代が支えていると思っていて。例えば「怒りの力で覚醒する」「戦闘中に能力をべらべら喋る」「強さの秘密は遺伝だった(実は親父も強かった)」とか、こういうテンプレ的な面白さに対して、一歩引いた視点から独自の解釈を加えている作者が多い。

 鬼滅が感情に極振りしているのは、「怒りの力で強くなるのはなぜ?→ただの人間が強くなるには感情を原動力にするしかないから」とジャンプ(バトル)漫画のお約束に一つの理由づけをする意味もあったんじゃないかなと思います。だから「少年漫画のセオリーから外れている」ように見えるのは、ある意味「1つのセオリーを突き詰めた結果」なんじゃないかと。結果としてバトル漫画として王道の面白さにはなっていないんですけど。

高島: おっしゃってることは超わかります。『呪術廻戦』のセオリーの裏切り方が私は非常に好きで、まさに血の問題を極めて後ろ向きにとらえたこと、能力の説明に合理的な理由を付与したこと、トロッコ問題的な状況に対して「全員救う」とたたきつけるのではなく、目の前の事例に責任をとれるか否かを厳密に問う姿勢など、とてもユニークかつ批評的な作品だと思っています。

 一方で、じゃあなんでセオリーを批判的に継承している作品がほかにも出ているのに『鬼滅』だけがここまで爆売れしているのか? と考えると、やはり『鬼滅』の感情への全振り、つまりわかりやすさと共感への全振りが現在の社会に歓迎されるものだったからなんだろうと思うんですよね……。

戸部: 『呪術廻戦』は『BLEACH』好きを公言しながら設定の多くが『BLEACH』のアンチテーゼになっていて、漫画そのものが“ジャンプ愛が転じた呪い”って感じで最高ですよね。

高島: 『呪術廻戦』は単行本でキャラクターのイメージソングが公表されてますしね。『BLEACH』を通ってきた世代からすると、『鬼滅』はまず「刀ひとふりひとふりに名前がないのにウケてる!」というところがひとつの大きな衝撃でした。『BLEACH』のすごみって持ち物などの設定ひとつひとつの意味を死ぬほど凝った結果として見えてくるパーソナリティのリアルネスだったように思うのですが、今の時代は凝ったディテールよりもわかりやすさの方が重視されているのかもしれません。

『鬼滅の刃』と、描かれる「死」

高島: バトルの話の繰り返しになるのですが、『鬼滅』は極めて精神的な漫画、感情漫画なんですよね。修行パートでも「何がどうつらいのか」を説明することに終始しているあたり、とても精神的な漫画だと思います。気持ちで説明されているがゆえに、絵をちゃんと読み取れなくても、状況説明を理解できなくてもわかるようになっている。これはキャラクターの死も同様で、全てが感情で進んでいくので感情的な整理がつけばあとはスッと飲み込めるようになっています。

 そして死の間際に流れるさまざまなキャラクターの走馬灯と、炭治郎の自己犠牲・追悼。気持ちは揺さぶるが、鬼になって人を殺してしまったものはどうしようもない、死ぬ・傷つく覚悟をしてきた人だから仕方がない……という形で説明し、そこに徹底的な感情的いたわりを追加することで、悲しみに対する読者の「痛み」を軽減しています。全然大往生じゃないけど、演出上は大往生に見えるというか。こういう作品が支持されていることを考えると、みんなフィクションに痛みを感じたくないのではないかという気さえします。

戸部: アアアアアア確かに、「死んじゃったけどよかったね」で終わらせようとする感じはありますね。鬼滅で喪の作業したことない。

高島: なおTikTokでは死者が出るたびに勝手にファンが作った「墓」画像(名場面キャプチャを組み合わせて作った立方体に十字架が刺さっている)に無関係な泣ける音楽を合成した動画などが流れてきます。

青柳: すごい世界だ……。強くて魅力的なキャラクターが、死ぬところまで含めてキャラの人気が作り上げられているような印象もあります。そしてその「どんどん柱が死ぬ」ということ自体が、「今読まなきゃ」という感じが生まれていたのではないかと。Google検索でも「○○(キャラ名) 死」というワードがサジェストされるし、TwitterやTikTokを見ていてもバンバン“追悼”とついたキャラクターのコンテンツが流れてきて死んだことがわかる。「この人がいつ死ぬかネタバレされたくないから原作読まなきゃ、本誌も読まなきゃ」というのが、部数の爆発的増加の一因になっているところがありそうです。

戸部: 僕はどんどん柱が散っていく『鬼滅』のラストバトルを読みながら「花京院とイギーが死んだとき当時のオタクもこんな気持ちだったのかな?」と思ってたんですけど、高島さんの話を踏まえて考えると大分性質が違いますね。

高島: ラストバトルは、みんな必要なわだかまりを回収していってますもんね。“来世での約束”をして命を落とすキャラクターもいて、読者はもちろん悲しいけれど、その約束があれば納得できてしまうところがある。これで何も言えず、共闘もせずに死んでいたら痛みが残ったかもしれないですけど、そういうことにはならない。

 フィクションに対して痛みと責任の放棄を積極的に「させる」形式だと思うので、違和感を持っています。感情というもの自体は最大限に擁護したいのですが、「画面の向こうの死が自分にとって気持ちいい」状態ってやはりよくない。それ死を消費してない?っていうのは超考えたいです、自分の人生の課題として……。

戸部: 鬼滅が「感情漫画」であることは完全に同意のうえで、テーマ自体は結構好きです。『鬼滅』は「人間が強くなる方法は感情しかない」ってテーマに終始していて、主人公の復讐を最後まで肯定しきったんですよね。「復讐は何も生まない!」みたいなこと言い出す奴が誰もいなくて、最後まで「よっしゃ無惨を殺せ〜〜〜〜〜〜〜〜」を原動力に進むのが良かった。確かに泣かせようとする漫画ではあるんですけど、そこに嫌らしさは感じない。だからこそ、いろいろな読者を引き付けたのではないでしょうか。

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