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『鬼滅の刃』は「感情」漫画である 精神性と当事者性から読む『鬼滅の刃』8000字レビュー

『鬼滅の刃』は何がすごかったのか?

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 吾峠呼世晴『鬼滅の刃』(集英社)について語る言葉は、その人気に比べれば思いのほか少なかったのではないでしょうか。2019年のアニメ化を契機に大ブレイクし、2019年のオリコンコミックランキングでは『ONE PIECE』を引き離して1位を獲得するほどの人気を見せた同作ですが、ヒットという現象について語られることは多くとも、その異質な作品性についてはあまり語られてこなかったように思います。

 今『鬼滅の刃』は、まもなくひとつの結末を迎えようとしています。吾峠呼世晴の過去作品と比較すると、同作は売り上げ以上に吾峠呼世晴作品の大きな転換点だったと言えるでしょう。この記事では「鬼滅の刃」は極めて精神的な作品であるという理解のもと、同作における「感情」の特異性について論じたいと思います。


鬼滅の刃 『鬼滅の刃』(Amazonより)

 先に断っておきますが、筆者は吾峠呼世晴の読み切り作品を強く称賛している一方、『鬼滅の刃』については批判すべき点が多いように思っています。このレビューが『鬼滅の刃』に対して批判的な内容を多分に含むこと、批判と否定は決定的に異なることを前提として、以下を読んでいただけるよう願っています。また、以下にはネタバレが含まれます。

『鬼滅の刃』の魅力

 吾峠呼世晴の漫画家としての才能に疑う余地はありません。ざらつきを見せながら作品のムードを丁寧に作り出す絵柄、気持ちよくズレる会話、ストレスのないテンポで進むストーリー。いずれも飛び抜けたセンスだと思います。

 『鬼滅の刃』の魅力について簡単に紹介しておきたいと思います。『鬼滅の刃』は、大正時代を舞台としたファンタジー漫画です。炭焼きの家の長男として生まれた主人公・竈門炭治郎(かまど・たんじろう)は、ある日突然家族を「鬼」に殺害され、妹の禰豆子(ねずこ)も鬼にされてしまいます。妹を人間に戻し、また自分のような思いをする人を出さないために、炭治郎は鬼の滅殺を担う組織「鬼殺隊」へ入隊し、鬼と鬼を統括する存在・鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)との戦いに身を投じていく、というのが基本的なストーリーです。

 突出してすばらしいのは、会話のズレです。例えば誰かひとりが怒っているとき、その場にいる人全員がその人の怒りを理解しているわけではない、というように、両者の間で状況の理解が共有されないまま進行するためにズレていく会話が、吾峠呼世晴作品には頻繁に登場します。

 例えば炭治郎と炭治郎を担当する刀鍛冶の鋼鐵塚蛍(はがねづか・ほたる)との会話は象徴的です。最初に日輪刀を受け取る際、鋼鐵塚は自分が打った刀をいち早く見せて説明するため、玄関先で刀を広げて話を始めます。しかし炭治郎は鋼鐵塚の話を聞かず、「中へどうぞ」「あの…どうぞ中へ」「お茶を入れますよ」「ふろしきが土で汚れると思うんですよ」「ちょっととりあえず一旦! 立ちませんか? 地べたから……」と説明のさなかにもどうにか家の中でお茶を飲んでもらおうと必死に声をかけ続けるのです。

 どちらかが一方的におかしいことを言い、片方が常識を以てそのずれに違和感を持つ、という「ボケとツッコミ」的な落差で笑いを取るのではなく、吾峠呼世晴作品は双方がそれぞれの立場で話を進めているがゆえに生じるズレとおかしさを多用します。これは極めてユニークでいとおしく、作品世界を拡張する機能を持っています。

 また、セリフ回しのうまさにも特に強烈な魅力を感じます。『鬼滅の刃』9巻における堕姫(だき)の「可愛いね 不細工だけど/なんだか愛着が沸くな お前は死にかけの鼠のようだ」というセリフにはとてもしびれました。硬い言葉遣いと砕けた言葉遣いの緩急が、「可愛い/不細工」「愛着/死にかけの鼠」という一見真逆の印象を与える言葉の往復と合流し、不細工だからかわいく、弱々しく死にかけているからこそ愛着が沸くというむき出しの残酷さに流れ込む。この言葉の魅力にはとても抗えません。

 この硬い言葉遣いと砕けた言葉遣いがひとつの吹き出しに流入するセリフ回しも、吾峠呼世晴作品に頻出します。霞柱・時透無一郎(ときとう・むいちろう)の横暴な態度を見た炭治郎のセリフ「こう… 何かこう… すごく嫌!! 何だろう/配慮かなぁ!? 配慮が欠けていて残酷です!!」が妙な引力を持っているのも、ですます調と砕けた言葉の往還によるところが大きいと思います。なお私が吾峠呼世晴作品で一番好きなセリフは、「肋骨さん」の「確かに僕はスケベですが君は蟹みたいだね」です。何を食べたらこんなセリフが出てくるんだ。

「感情」を中心に進む物語

 しかし何より、『鬼滅の刃』を語る上で重要なポイントは、同作が極めて精神的な漫画であることではないでしょうか。

 まず特筆すべきは、『鬼滅の刃』の物語は感情ベースで進んでいるということです。それは語りの手法においても、作品の軸としても一貫しています。

 語りの手法における「感情」について考えてみましょう。『鬼滅の刃』の修行・戦闘シーンは、修行・戦闘している主体にとってそれがどのようにつらく苦しいのかを説明したモノローグによって進行します。技の説明は極めて少なく、登場してもその技がどのような原理で出されているのかはほとんど説明されません。一言でいうと「ふわっとしている」のです。バトルにおいて「何が起こっているか」ではなく、「何を思っているか」を中心として話が進むのは、『鬼滅の刃』の特徴だと言えます。

 この手法のメリットは、なんといってもわかりやすいことです。戦闘の状況から主体の直面する困難を想像させるのではなく、痛みや困惑の問題として説明することで、すべての状況を感情のレベルで理解できるようになっています。裏を返せば、炭治郎が何をしているのか読み取れなくても、炭治郎が悲しんでいる、あるいは苦しんでいる、というようなことさえ理解できれば、話についていけるようになっているのです。

「想い」の継承者としての鬼殺隊、「想い」の否定者としての無惨

 物語の中の「感情」についても考えてみます。鬼/人間、あるいは鬼舞辻無惨/鬼殺隊、という対比は、そのまま非人間的な無感情/人間的感情の対比に直結しています。

 ここで特に重要なのは、鬼が鬼殺隊によって打破される理由こそ、「非人間的な無感情」で説明されているという点です。堕姫と対峙した炭治郎は「人にはどうしても退けない時があります/人の心を持たない者がこの世には居るからです/理不尽に命を奪い反省もせず悔やむこともない」とモノローグで述べ、童磨(どうま)と対峙した栗花落(つゆり)カナヲは「貴方何も感じないんでしょ?/この世に生まれてきた人たちが/当たり前に感じている喜び 悲しみや怒り 体が震えるような感動を/貴方は理解できないんでしょ?」「貴方何のために生まれてきたの?」と突きつけます。鬼は単純に人を殺すから殺さねばならないというより、人を殺しても「人の心」で反省や後悔をしないからこそ鬼殺隊に追われるのです。

 鬼殺隊の主要キャラクターのほとんどが鬼の被害を経験した被害者遺族であることが、この点に深く関与してきます。鬼殺隊は確かに鬼-被害者の二者関係に第三者として介入する仕事でもあるのですが、同時に「二度と理不尽に奪わせない/もう二度と/誰も/俺たちと同じ悲しい思いをさせない」という炭治郎のモノローグの通り、鬼殺隊隊員にとって目の前の事件は自らの過去を踏まえた「二度目」なのです。隊員は「鬼による被害を食い止めねばならない」という公共的な目的の遂行者として以上に、被害者遺族として戦場に立っています。この被害者遺族という当事者性が、鬼たちの反省・後悔の欠如=「人の心」の欠如を責める正当性として極めて大きなパワーを発揮します。なぜ隊士が鬼と対峙しなくてはいけないのか、感情的に明確な理由があるのです。

 このポリシーが最も強く出るのは、無惨と鬼殺隊の頭領である産屋敷耀哉(うぶやしき・かがや)の対比です。無惨は味方に対してもパワハラと暴力をぶつけまくりますが、耀哉は常に隊士をいたわり、精神的なケアに努めます。また無惨が求めているのは不変不滅の自己という「永遠」ですが、耀哉は「永遠というのは人の想いだ」と言い返します。無惨を出した一族として、何代も「無惨を倒す」という意思を引継ぎ、被害者遺族としての隊士たちの「想い」を受け継ぐ。この「想い」の継承こそが鬼殺隊の原動力であり、無惨に立ち向かうための最大の武器なのです。「記憶の遺伝」や鬼殺隊の遺書、そしてヒノカミ神楽まで、『鬼滅の刃』では「想い」の継承が鍵となる場面が多数登場します。

 無惨はこの「人の想い」の否定者として立っています。最終決戦で無惨の前に現れた炭治郎に対し、ラスボス的に「待っていた」というわけでもなく、「しつこい」「お前たちは生き残ったのだからそれで充分だろう」と告げる無惨の姿勢は、まさに鬼殺隊を立ち上がらせた被害者遺族としての「想い」を最大限に否定するものでした。だからこそ炭治郎は「お前は存在してはいけない生き物だ」と告げるのです。

走馬灯と追悼

 しかしながら『鬼滅の刃』では、鬼を責め、打ち倒すだけでは終わりません。極めて重要なのが「走馬灯」「追悼」です。

 『鬼滅の刃』では、鬼も人も走馬灯を見ます。この走馬灯と追悼は、鬼の死においても隊士の死においても象徴的な役割を担っています。『鬼滅の刃』で表現される死は、どれもむごく悲しく苦しいものです。しかし死の間際、その人物の(鬼であれば人であったころの)人生のハイライトとなる記憶が回顧され、抱えた後悔や苦悩、鬼であれば鬼になるまでのエピソードが入り、それらが死によって精神的に清算されます。こうして走馬灯と炭治郎たちの看取りによってその人生を救済され(煉獄が炭治郎たちに後を託し、母の幻影に認められて死んでいくのは象徴的です)、満足して死んでいきます。そして炭治郎たちは、鬼の哀れさに涙を流したり、手を握ってやったり、あるいは仲間の死に泣き叫び、虚脱し、己の無力さを嘆いて、全身全霊で喪に服し、深く追悼するのです。

 これらの表現は死者にも生者にも感情移入させる力があり、極めて距離の取りづらい、力のある表現だと思います。しかしあえて距離をとって考えると、こうも思われるのです――徹底的に死をダイナミックに演出し、すでに人生の本懐を遂げた「大往生」として描き、さらに大往生に対する追悼を作中でたっぷり描写することは、死を読者にとって極めて飲み込みやすいものに変える作業でもあるのではないかと。

 『鬼滅の刃』の死は、飲み込みやすい死です。受け入れがたい不条理さや耐え難い痛みは作中で咀嚼(そしゃく)され、読者の喉にはほとんど残りません。この点については賛否両論あるのでしょうが、私は違和感を覚えています。痛みや責任を負わなくてもよい死を歓迎することは、たとえフィクションであっても、死の消費ではないかと考えざるを得ないからです。『鬼滅の刃』が死の消費に向かって道を開いている可能性は、少なからずあると思います。

できごとと語りの距離の近さ

 さて、ここからは吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』以前の作品と『鬼滅の刃』を比較してみます。

 これはここ15年ほどのジャンプ漫画に触れてきた私の個人的な雑感ですが、この期間のジャンプマンガにおける「ジャンプらしさ」とは、友情・努力・勝利などではなく、「できごとと語りの距離の近さ」であったように感じています。

 できごとと語りの距離の近さとは、マンガという語りにおいて、その視点が物語の中のできごとに対して極めて近い位置にあり、全力で一つのできごとに注意を向けている、という意味です。視野が絞られていると言い換えてもいいかもしれません。読者が主人公をはじめとする「語り」側のキャラクターに強く気持ちを寄せて、物語の中のできごとを真正面から眺め、物語から流れ出る風を全身に浴びられるような設計を突き詰める手法は、極めて「ジャンプ的」であるように思います。ただし、当然すべての作品が当てはまるわけではありません(注1)。

注1……「すべての作品に当てはまるわけではない」とは、文字通りの意味でもありますが、近年そのセオリーから大きく逸れた作品が意識的に投入されており、少し紙面のムードに変調がある、という意味も擁します。

 例えば『チェンソーマン』はできごとと語りの距離が遠い作品で、社会を揺るがす大変な事件を社会の「下」からやってきた主人公・デンジが解決する流れを、淡々と描写しています。「まっとうな社会」にとっては巨大な危機であっても、まっとうな社会から零れ落ちて生きてきたデンジにとっては危機ではない、という認識の錯綜が、語りの距離感によって立ち現れてくるのです。ちなみに『進撃の巨人』も視点を遠く設定する作品であると思います。『チェンソーマン』のような「ジャンプ的」セオリーから外れた異色作が『進撃の巨人』以後に出てきたことは重要な画期を示しているのではないでしょうか。

「蠅庭のジグザグ」との対比

 吾峠呼世晴作品を『鬼滅の刃』以前/『鬼滅の刃』以後で分けたのは、語りの距離が決定的に変化しているからです。『鬼滅の刃』以前の作品では、語りの距離はできごとから離れていますが、『鬼滅の刃』ではそれが「ジャンプ的」にぐっと接近します。

 『鬼滅の刃』以前の作品から、「蠅庭のジグザグ」を参照してみます。この作品は、身勝手で傲慢ながら、呪いを解除する能力を持つ「解術屋」である主人公・斎藤ジグザグが、呪殺で金を稼ぐ呪殺屋を成敗するストーリーです。同作には、ジグザグのモノローグは入りません。

 ジグザグは近所の老婦人・花婆が知人の不可解な自殺について言及したことをきっかけに事件の捜査に乗り出しますが、注目すべきはジグザグが異能力を行使するシーンです。ジグザグは自殺した故人の家に出向き、花婆の前で説明を加えながら異能力を使いますが、花婆は説明をほとんど聞かず、異能力に注目もせず、故人の遺品整理に集中しています。花婆にとってはジグザグのウソか本当かわからないやる気よりも、亡くなった知人の遺品整理のほうが重要だからです。

 花婆は「まー そう」と答え、ジグザグから「聞いてんの?」と言われても「聞いてますよ」という聞いていなさそうな返事しかしません。そしてジグザグが故人を自殺させた呪殺屋の居場所を異能力によって突き止め、「どつきに行く」と言い残して姿を消したとき、はじめて花婆は驚くのです。

 例えば主人公の異能力の行使を前にして、巻き込まれた人(=読者に近い視点を持つ人)が目を見張り、驚き、「この人は一体」と興味を持つ。そのように描写すれば、登場人物の視線の方向によって物語の中心地点は絞られ、強調されます。よく利用される手法です。

 しかし「蠅庭のジグザグ」はそのような描き方を採用しません。同作では画面に出てくる人ひとりひとりに、同時並行にそれぞれの集中すべき問題が存在するため、視線が一つの問題に集中せず、拡散しています。この拡散によって、絶妙に漫画作品としての語りのピントがずらされるのです。この描き方は冒頭で触れた独特なセリフ回しやテンポと相まって、独特の面白みを生み出しています。

 花婆のシーン以外にも、ジグザグが決して信念があって呪いの解除を担っているわけではない点、殺人依頼をした犯人のしょうもない動機がジグザグの能力と無関係なところで解決されてしまう点なども重要です。これらは、同作がひとつの時間軸にひとつの正義を設定するのではなく、ひとつの時空間にさまざまな動機の人間が同時に何人も存在するという状態を前提にできていることを示しています。結果、主人公がいてもできごとと語りの距離は積極的にずらされ、作品世界は立体的に拡散されるのです。

 『鬼滅の刃』は、過去作品に比べてできごとと語りの距離がぐっと近づきます。『鬼滅の刃』では、吾峠作品的な「ずらし」が消えたわけではないのですが、話にメリハリがつき、「ずらし」た会話が頻出する日常パートと、語りが主体の感情に集中する戦闘パートの差が大きくなっています。モノローグの増加と、感情に全振りして気持ちを寄せさせる描き方は、まさに主体が直面しているできごとと語りとが密着しているからこそ可能なことだと思います。

成長と当事者性

 そしてもう一点考えておきたいのは、「成長」の問題です。少年漫画において、いやフィクションにおいて、と主語を拡大してもあながち誤りではないかもしれませんが、キャラクターの前向きな変化=「成長」は極めて重要な要素であると考えられます。物語を通じてキャラクターがどう成長したのかという点は、プロットの明確な軸にしやすいからです。

 しかしながら、吾峠呼世晴の読み切り作品では、「成長」はほとんど出てきません。

 「文殊史郎兄弟」でも、殺人依頼をした少女・静伽が憎しみから解放されることはなく、殺し屋・文殊史郎兄弟との関わりによって新たな居場所を得ることはなく、兄弟も兄弟で仕事をこなすことや静伽との関わりで何か変化するわけではありません。むしろ「悪人」がひとり殺されただけでは何も変わらないことを示して終わります。

 また「ジグザグ」でも、登場人物の「成長」は描かれません。最後のページが「人間ってそう簡単には悔い改めたりせんからね」というセリフで締められている通り、ジグザグも犯人も被害者も、何も変わることがありません。デビュー作「過狩り狩り」も、「成長」は全く描かれません(注2)。

注2……読み切り「肋骨さん」ではわずかに主人公・アバラの変化が描かれます。読み切りの中では本作が最も『鬼滅の刃』に近い姿勢で描かれているように思います。しかしながら、命を顧みない己の姿勢を反省したアバラが最後のコマで見せる笑顔は、「ごめんね ありがとう」というセリフ、薄暗い夕景も合わさって、極めて不安定でナイーブに見えます。

 私はこの「成長」のなさが本当に大好きです。奇妙な異能力漫画を、「ある主人公の成長」ではなく「広い社会のどこかに奇妙な日常を送っている人がいる」程度の距離感で示すやり方は、むしろキャラクターのリアルネスを増幅しています。また、過度に「成長」を称揚する姿勢は、確かに多くの興奮をもたらしますが、同時にとても過酷で息苦しいものです。競争に駆り立てず、ただそこに「いるだけの人」の物語を描くことには、大きな意義があると思います。

 一方で『鬼滅の刃』は、そこから大きく路線変更をしているように見えます。「生殺与奪の権を他人に握らせるな」「頑張れ炭治郎頑張れ!!」というセリフが象徴するように、『鬼滅の刃』は被害者遺族が努力をして強くなり、復讐を遂げる物語です。さらに煉獄が死の間際、炭治郎たちに「俺がここで死ぬことは気にするな/もっともっと成長しろ」と言い残す通り、「成長」が「想い」の継承のための重大なピースとして機能するのです(注3)。私は炭治郎の復讐の成功を祝福しつつ、同時に被害者ばかりが頑張り成長しなければならないのはとてもつらいことではないか、とも思います。「文珠史郎兄弟」「ジグザグ」に見た奇妙な日常の魅力は、『鬼滅の刃』においては影が薄くなっているように見えるのです。

注3……ただし最初の呼吸「日の呼吸」を使う継国縁壱と、縁壱の兄であり鬼である黒死牟の関係においては、人/鬼の対比が逆転されています。縁壱は炭治郎の祖先・炭吉の「縁壱さん 後に繋ぎます」という約束の通り、炭治郎に受け継がれた「想い」の根源にいる存在ですが、感情表現に乏しい人物であることが明記されています。また最初から「透明な世界」が見えており、「成長」とも離れた位置にいる「人の理を外れた」人物です。縁壱に激しく嫉妬し、「成長」の果てに限界を見て鬼になる道にたどり着いた双子の兄・黒死牟(こくしぼう)と対比されています。人の身の限界に対して、縁壱が出す答えもまた「想い」の継承です。

 しかしながら読み切りにはなかった「感情」の主軸化と「成長」によって、『鬼滅の刃』は異例の大ヒット作品になりました。それは「感情」と「成長」が、今の読者にとって受け入れやすいものであったからではないでしょうか。いずれも人が立ち上がるために重要な要素であり、社会集団ではなく個人に帰属するものです。私はこの指向が、問題解決において個人の責任をより重く見る自己責任論的姿勢と通底しているのではないか、という危惧を持っています。

 2020年5月18日発売の週刊少年ジャンプ2020年24号で、おそらく『鬼滅の刃』は完結または現代編への突入に至ると思われます。不思議な魅力と危うさを持っていた同作がどのように幕を引くのか、一読者として緊張しながら待機しています。


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