「あ,でもクリス。ご飯はどうするの?」
「今日はもういいや。明日にでも考えるよ。とにかく今は眠いんだ。疲れてるし,病み上がりだから」
「やみあがりって……風邪でも引いてたの?」
「昨日までね。今日もあんまり良くはなかったんだけど,アンサンブルしてるうちにそうでもなくなったかな」
「そ,そうなんだ。言ってくれれば良かったのに」
「いや,一緒にアンサンブルできて良かったと思ってる。なんだか,今ではフォーニのこと,信じられそうな気がする」
「……なによ,今まで信じてなかったの?」
「もちろんね。それが普通だと思うよ」
「ま……それもそうか」
納得したようにフォーニは笑った。
「そう言えば,妖精はご飯は食べないの?」
「うん,食べないよ」
「……そう。ならもうなにもつっこまないよ。とにかく僕は寝るね」
「あ,その前に一つだけお願い」
「ん?」
「窓辺まで連れてって」
フォーニは窓の外を指さして,そこに行きたいという意志を示した。
「構わないけど,なんでまた?」
「空でも見ようかと思って」
「この街では雲しか見えないよ。ずっと雨が降ってるんだ。一年中止まないんだって」
「……あめ?」
「そっか……雨は知らないんだ」
そっと,最初よりは力を入れずに握り,それからもう一方の手に乗せる形にした。握るよりは幾分不安定だけど,羽で上手く調節しているのか,転びそうな気配はない。
「……ん? そういえばその羽は? さっきから浮いてるように見えるけど,飛んでいけないの?」
思い返してみれば,最初も机の上にあげてくれって頼まれたっけ。
「それがね,この羽も万能じゃないのよ。十センチくらいのとこで浮いてはいられるんだけど,それ以上高いところに行くと,どんどん落ちてっちゃうの」
「……それって,どんな感じ?」
「こう,すいーっと斜めに落ちていく感じかな」
どんなものかと,試しにフォーニを載せている手を横に倒してみる。
「わ! わあ!」
とっさにごめん,と謝って受け止めようとしたけど,驚いた声の割には悠々と,まるで鳥が空を滑空するように滑り降りていった。
「ちょ,ちょっとクリス!」
ただ,まっすぐには降りられないのか,ずいぶん離れた位置でフォーニが僕に声をかける。
「……ごめん。ちょっと試してみたくなって」
「早く窓にのっけてってば! あと,次やったら酷いからね」
「……はい」
小さい割にはすごみのある声でそう言い,フォーニは再び僕の手のひらの上に乗った。
今度は真面目に,窓辺に手を近づける。そのままぴょんとジャンプして,フォーニは窓の外を眺めた。
「これが雨。この街ではめずらしくもないんだってさ。ニンナさんとトルタが……あ,僕の知り合いなんだけど,教えてくれた。その前にも本か何かで読んだことはあったけど,こうして実際に体験してみないと,わからないものだね」
「……雨,か」
フォーニは窓の外の風景から視線を逸らさずに,しばらくじっとしていた。空から水が振ってくるという事実に,驚いているのかもしれなかった。
「じゃあ,僕は寝るよ。電気は消しても大丈夫?」
「あ,うん。大丈夫」
その声は小さく,今にも消え入りそうだった。
「どうかした?」
「ううん,なんでもない。おやすみ」
「ああ,おやすみ」
この異常な状態にも,僕は慣れつつあった。彼女の歌声を聞いてしまったら,もう本当にどうでも良くなってしまった。音の妖精だとか,フォーニという僕が適当につけてしまった名前だとか。
そういうものを全部含めて,つまり僕はその存在を信じようという気になっていた。明日の朝,起きたらいなかったなんてことがあったら嫌だな……なんて考えながら,その日は眠りについた。
そして次の朝,僕の期待は裏切られることはなかった。
誰もいない部屋で一人目覚めるのではなく,誰かの声で目覚めることが,こんなにも心を暖かくすると言うことを,改めて知らされた結果となった。もっとも,その起こし方には問題があったけど。
そして僕はフォーニに言ったんだ。
――改めて,よろしく,って。
――という,夢を見た。
いや,実際には夢なんかじゃなく,現実に僕の身に起こったことだ。あまりそのときのことを覚えてはいないんだけど,こうして今,夢という形ではっきりと思い出すことができた。
「なんでだまりこんでるの? 風邪は? 大丈夫?」
「……いや,駄目。それでフォーニは,なにをしてるのかな?」
「だから,濡れたタオルでクリスの頭を冷やそうと」
全くもって,進歩が無い。
「ずっと前に説明したよね。フォーニの力じゃタオルは絞れないんだからって」
フォーニが,好意からそうしてくれているのはわかる。それに非常に感謝もしているけど,気持ちだけで充分だった。
どうやってか台所で濡らしたタオルを,あまり絞らない状態で僕の頭の上まで持ってくるものだから,フォーニが通った後にはなめくじが這ったような水の跡ができていた。おまけに布団と僕の頭が,びしょびしょになっている。
「風邪はもう大丈夫。頼むから,これ以上悪くさせないで」
「な,なによ! クリスが柄にもなく夏風邪なんて引くからいけないんじゃない!」
「……それは,責任転嫁だって」
「なによ! 寂しいからって昨日はトルタの家まで行っちゃうから,悪くなるのよ」
「だから,悪くなってないって。もしこれから悪くなるとしたら,フォーニの責任だって言ってるの。……いや,それ以前に,寂しくなんかないって」
「聞いちゃったもん。『側にいてって』ってクリスが寝言で言ってるの」
「……嘘だ」
「嘘じゃないって,トルタだって聞いてたもん」
……ああ,この話は分が悪い。寝言で自分がなにを言っていたかなんて,他人の言葉を信じるしかないものだ。
「百歩譲って言ったとしても,トルタやフォーニにじゃないよ」
「アルでしょ? そのくらい知ってるよ。でも寂しがりやだってのは変わらないんだから」
勝ち誇ったようにフォーニが言う。僕がいないと机の上にも登れないくせに,という言葉をすんでのところで飲み込む。さっき見た夢の影響がまだ残っているのか,なぜかフォーニを怒る気にはなれなかった。
「はいはい……わかったよ」
とりあえずの負けを認めて,乾いたタオルを探しにベッドから起きあがる。髪からはまだ水滴がしたたり落ちているけど,早く気づいたせいか,まだそれほど冷えてはいない。
結局アルは,フォーニの姿を見ることはできないみたいだった。去年と一昨年の十二月二十五日,ナターレの日に遊びに来たとき,目の前でフォーニをしゃべらせてみたんだけど,なんの反応もなかった。
トルタも何回かこの部屋に来たことがあるけど,やはり同じ反応だったのを覚えている。僕にしか見えていない,という不信感も,今では忘れてしまうほどだ。
一方フォーニの方はなぜかアルとトルタをいたく気に入り,今では僕との会話で呼び捨てにするほどだ。
「とにかく,今後風邪を引いたときは,今日みたいな起こし方は駄目だからね」
「はいは〜い」
わかったのかわかっていないのか……。フォーニは,まださっきの勝利の余韻を引きずっているかように,勝ち誇っている。それがなんだかおかしくて,さっきの夢で最後にしたように,小指をフォーニの前に差し出した。
「これからも,よろしく」
音の妖精は,驚いたような顔をして,それからまた,僕の指をきゅって握った。その手は暖かくて,濡れたタオルを絞った手の冷たさを,奪い去っていく。
「これからも,よろしくね。クリス」