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ゲームとアカデミーの素敵なカンケイ(第1回)――東京大学 大学院情報学環 馬場章教授(4/4 ページ)

「ゲームとアカデミーの素敵なカンケイ」は、ゲームを学術的に研究するさまざまな人たちにフォーカスして、その研究内容や将来の構想についてうかがっていく。第1回目は、日本デジタルゲーム学会会長でありCESAの理事をつとめる、東京大学 大学院情報学環教授の馬場章先生。日本の最高学府では、どんな研究が行われているのか……?

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「ゲームリテラシー」の高まりがゲームの社会的地位向上につながる

―― 「日本ではゲームの社会的地位が低い」という話はいろいろな方面から出てくる話です。それは、作り手側、受け手側で分けても、あるいは産学官で分けてもいいのですが、それぞれに原因があるのかと思います。馬場先生は、「こういう風になったら、ゲームの社会的地位向上につながるのでは」といったことはお考えでしょうか。

馬場 「ゲームとの付き合い方を考える」というとしごく当たり前のことに聞こえるでしょうが、私は「ゲームリテラシー」という言い方をしていまして、それを身に着ける心がけをすることが、ゲームの負の側面にまつわる色々な問題を解決することに結びついているかなと考えています。

 ゲームリテラシーとは「自分が1日、何時間ゲームすればいいのか」とか「どういう種類のゲームをすればいいのか」という判断能力を身に着けることと一般的には捉えられています。しかし、それだけではなくて、むしろ「ゲームの向こうにも人がいることを理解する」のがゲームリテラシーなのではないかと私は考えています。

 「ゲームの向こう側にいる人」が誰なのか、それは開発者の方だと思うんです。企画からセールスまで含めてですね、ゲームはただそこにあるものではなくて、彼らの創造物であるということにまず気がついてほしい。いろんな思いを込めて企画し、プログラミングやCGを描き、そしてパッケージングされて店頭に並んでいるっていう、それを理解することが大事だと。そうすると段々気がつかなかったゲームの本質が見えてくると思うんです。

 「どうしてこのゲームを開発した開発者ってこういう描き方をしているんだろう」というようなゲームデザイン全体でもいい、あるいは「なぜこういう技術を使ったんだろう?」と技術の一部に注目するのでもいい。単にそれを一方的に遊ぶだけ、受け取るではなくて、ゲームプレイヤーが自ら語りかけてみる、問いかけてみるということが大事だと思っていて、そうするとゲームの向こうにいる人の顔が、顔が見えなくても人がいることくらいは分かってくるんじゃないかと思うんですね。それを理解することが本当のリテラシーなのではないか、と。

 ゲームプレイヤーの皆さん、あるいはプレイしない人も含めて、そういうリテラシーを身に着けていくということが、ゲームを見直すことになりますし、それがゲームの本当の評価に結びついていくんじゃないかと思うんですね。実はコアなゲーマーって、それ気がついているんですけれども、なかなか一般化しないですね……。

―― ワタシたちが遊んでいるゲームを作って、それでご飯を食べている人がいるんだ、という認識をしっかりと持つことができれば、違法コピーも減っていくのではないでしょうか。

馬場 多分それはゲームに限った話ではなく、デジタルコンテンツ全体にいえることだと思います。自分がいつも受け手の側だけに身を置いていると、平気で違法コピーとかやっちゃう。でも、送り手の側に身を置く、あるいは作り手のことが理解できるとやめるんです。近年はデジタル技術の進化によって、送り手と受け手の境界線があいまいになってきています。それも相互乗り入れといってしまえばそうなんですが……作っている人がいるんだっていうことを理解するだけでも、かなり状況は変わってくるんじゃないかなと思います。

―― 企業側が「ゲームリテラシー」を向上させるにはどういった努力が必要なのでしょうか。

馬場 私がゲームの研究をやっていて、つくづく思うのは「ゲームの開発者には魅力的な人が多い」ということです。その魅力をゲームだけではなくて、もっと他の形でも発揮してもらいたいなと。少し語弊のある言い方かもしれませんが、日本のゲーム業界を代表する人がいつまでも特定の人物だけでありつづけてはいけないと思います。非常に優れたゲームを世に送り出して、世界でも非常に高い評価を受けている40代後半あるいは50代の日本人開発者はいますが、次の世代がなかなか表に、あるいは世界に出てこない。

 40代前半、30代の開発者は、すごく才能があって、おもしろいゲームを作って、話していても楽しい、魅力的な方が多いんです。ですが、なかなかその人たち見えてこない。ゲーム産業全体として頂点に位置する開発者だけではなくて、もっとゲーム産業に携わっている人達1人1人のその待遇まで良くなればいいんでしょうけども……そこまでいかなくても、それぞれがそれぞれをリスペクトするようなそういう仕組みがもっと必要なのかもしれません。それは、一部の企業で始まっているように、ゲーム開発に携わった1人1人のお名前をパッケージに記載するという程度のことから始めてもいいと思うんですよ。あとはWebであるとか紙媒体などを通じて、そういう人達がどんどん顔を出してくる、発言していく、そういうチャンスを企業の側も積極的に設けてもらいたいと思うんです。

 新作タイトルは宣伝をして、売っていかなければならないので、企業はどんどんプッシュするんでしょうけども、大切なのはそれを作っている人達なのではないでしょうか。もっとゲームを通じた作る人と受け取る人とのコミュニケーションがあってもいいんじゃないかなと思っているんですが、なかなか企業としては1人1人の従業員のことまで見ていくのは難しいのかもしれませんね。

 ですが、世界に誇れる日本のゲームタイトルをいろいろな場所で分担している1人1人のデベロッパーなわけですから、もっと企業からも社会からもリスペクトされてしかるべきで、それを企業の側がシャットアウトしてしまってはいけないと思うんです。ゲーム企業は、宣伝としてではなく、ゲームリテラシーの形成ために、開発者の方々を前面に出していただきたいですね。

 ゲームは、社会のコミュニケーションを円滑にしていく、そういう役割も担っていると思うので、ゲームリテラシーが具体的に実現すると社会の中でゲームの位置づけというのはおのずと上がってくるでしょうし、デベロッパーの方々も含めた社会的な地位というのが再評価されてくると予想しています。海外に行くと全然違うんです。逆ですよ。海外に行くとデベロッパーが前に出て企業は後ろに控えている。それが当然の風景になっている。でも日本って逆なんですよね。

―― それでは、ゲームの社会的な地位を上げるために学側はどういったアプローチをしていくべき、あるいはしているんでしょうか。

馬場 これは社会全体にいえることですが「エンターテインメントに対する見直し」をいうのを学の側で積極的にやっていくべきだと思います。特に日本だけでなく、東アジア全体でいえることですが、教育機関ではエンターテインメントに対する評価が低いんです。それが学問の対象になるという発想が毛頭ない。ただそれが、最近少しずつ変わってきてはいます。例えば「スタジオジブリ」のアニメが研究の対象になってきて、論文がたくさん書かれて、研究している研究者も結構いるんですけれども、ゲームに対してはまだまだです。東大の教員の中でも「アニメはいいけど、ゲームはね……」という風潮がなぜかあるんです。今でこそ私は大きな顔をして「ゲーム研究やってるぞ」っていってますけどね、始めたころは本当に肩身が狭くて……もう始末書を書きまくっていました(笑)。

 最近になって東大でもアニメまでは許容されるようになったんですが、ゲームはまだまだなのかな、と。確かにジブリのアニメがあれだけ世界で評価されるようになったおかげで、アニメの社会的な地位は高まった。でも、ゲームってその前から世界的に評価されていたし、知らなかったのは日本人だけなんです。ですから、もっともっと学がゲームを再評価していくべきだと思います。

 社会的にいわれる「ゲームのマイナスの影響」を、研究者すら真に受けてしまっている。さらに言えば、研究者のほうがより深刻に受け止めててしまっている。そういう感じがするんです。その突破口の1つとして日本デジタルゲーム学会を作ったんです。そこにはあえて「学会」という名前をつけて「ゲームは研究の対象になる」、「国際的な活動であるとか産学連携のテーマになりうる」ということを宣言しました。これからの私たちの活動として、DiGRA JAPANを足がかりにして、本当に科学的なゲーム研究を日本国内で積み上げていくということが大事だと思っています。幸い、いろいろなマスコミでDiGRA JAPANを取り上げていただけていますが、まだ自分達の研究成果には不満を持っています。もっと研究の輪を広げる、層を厚くする、きちんと世界的に評価される研究を積み上げていく。そういう責任があると思っています。

馬場研究室Webサイトでは、講演情報・研究情報などを公開している
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