初めて誰かを愛して、初めて憎んだ<前編>:痛みを感じる光だけが君を救う光になる
きみでよかったのに、きみがよかった。
好きって、絶望だよね(『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』)
初めて自分の心に触れることのできた瞬間を、きみは覚えている?
透明なガラスのようにただ世界を映すだけだったその瞳が、消すことのできない光に射抜かれる。
初めて自分の心が壊れてしまった瞬間の音を、きみは覚えている?
半透明な皮膜のようにただ世界を覆うだけだったその耳が、消すことのできない残響に貫かれる。
愛は痛みだ。僕は祈る。
その痛みがきみの瞳を射抜いた残像をふさいでしまわないよう。
その痛みがきみの耳に木霊する残響に蓋をしてしまわないよう。
これは初めてきみが自分の心に触れ、
触れた心が壊れてしまった瞬間の音を聴いた、
喪失の物語だ。
目を閉じる。
水の鳴る音が聞こえる。
枯葉を踏みしめる音が聞こえる。
押しあてた胸の鼓動が聞こえてくる。
あのときたしかに僕らは愛し合い、
互いの心に触れ合い、
そして心を壊し合った。
だけどその壊れた心は、
たとえ割れたガラスのように砕けたとしても、
いまでも記憶のなかで結晶化して、宝石みたいな輝きを放っている。
だから僕は物語を紡ぐ。
痛みを感じることのできた愛だけが、
絶望からきみを救いだす光になると思うから。
1
始まりはとても寂しい冬の日だった。
「綺麗なあとがついてる」
白い足がストッキングからあらわれる。
「好きなひと以外にはみせないんだけどな」
その細く器用な指先が、やわらかな輪郭をかろやかになぞる。
「不安?」
「何が?」
「何でもない」
「痛くしないから」
「私と付き合ってくれる?」
返事はいつも自分の声にかき消される。
私のからだは驚くほど透明に好きでもない相手を受け入れる。
だけど私の心が透明になることは決してない。
「好きって、透明だよね」
猫にミルクを上げながら、いじめられっ子のきみが言った。そのせりふを、あれから長い時間がたっても、思い出す。
冬も。春も。夏も。秋も。そしてまたすぐ廻る冬の季節も、始終その記憶は私のからだのなかに脈打っていて、発火するときを待っている。
学校。げた箱。渡り廊下。薄暗い階段。日射しを反射するリノリウムの床。
そして私を見る――切れ長の瞳。色素のうすい髪。小さなくちびる。低くてハスキーなきみの声。
どんな東京の建物よりも美しく、どんな路地裏の廃棄物よりも汚れた記憶。
それは遙かに遠く、それでいてすぐ昨日のことのように思い出す、灰色の冬の日の出来事。
半透明にくすんでいく、それでもたしかに透明だった、初めての感情を心にともした放課後。
きみはまだ生きていた。
そのとき私はもう15歳になっていた。
2
なんとか思い出せるのは、第二音楽室での出来事。
きみは大切な友達の恋人で、私は大切にされた振りをしている人形だった。
それなりに社交的で、それなりに無難。
飛び抜けて綺麗というわけじゃないけれど、髪形や化粧で、若さや美ばかりが称揚される、この東京という街とも折りあいをつけることができる。
何事にも無関心をつらぬけない程度には興味も広く、うすっぺらい友人関係には事欠かない。
だけど、そんなどこにでもいる私だけれど、だからこそ、どこにも行き場がないと感じていた。
居場所が、なかった。学校にも。教室にも、都市にも。家庭にも。
ネットのなかの世界は便利だけれど、スマートフォンの小さな画面の向こうに、本当に自分の居場所があるとも思えなかった。
からだが、足りない気がした。
誰かに、触れたかった。
誰かに、触れられたかった。
物理的な接触を意味するわけではなかった。
精神的な接触を意味するだけでも足りなかった。
おそらくそのどちらでもあって、どちらでもなかった。
綺麗でありたいのに、汚れた部分も併せ持ちたい。
低俗なものも取り入れたいのに、不純物を取り除きたい。
私はその両極端な衝動に引き裂かれた1つの物語で、その物語は、これからきみだけに打ち明ける秘密の一端を構成する。
「なぜ泣いてるの?」
その日。オルガンの前で声を殺して泣いている私に、きみが声をかけてきた。
はだけた制服を必死でなおしながら、それでも靴下に付いた血は消えなかった。
私にはクラスで人気者の恋人『A』がいる。そう思われているし、実際の所、そうだったのだろう。だけど私は、そんな奪われ方を望んでいたわけじゃなかった。そんな愛され方を求めていたわけじゃなかった。
『不安?』
『何が?』
『何でもない』
『痛くしないから』
痛みはなかった。それでも記憶のなかにこびり付いている避妊具の残骸は、ピアノの鍵盤に、ひきつれのような緋色を残した。
「わからない。悲しいわけじゃない」
私は言った。痛みのせいで、泣いているわけじゃなかった。哀しいから、泣いているわけでもなかった。
もしクラスの女子に打ち明けていたら、きっと羨望と嫉妬の渦に巻き込まれていただろう。
「だけど、きみは泣いてる」
そう言って、きみは私の汚れたストッキングや避妊具を素手で処理してくれた。土砂降りの雨のなか、傘も差さずに泣いてる情緒不安定な私を、コートで匿ってくれた。自分がずぶ濡れになりながら、タクシーを呼んでくれた。帰り道は同じ方角だった。
どうしてきみの家に行ってしまったのだろう?
もちろん、答えはわかりきっている。
行きたくて行ったのだ。心細くて、寂しくて、ケータイの電波では到達することのできない寂しさを埋めるために、きみの善意を利用したのだ。
いまでもあの日の出来事を夢にみる。
――出会わなければ、きみの心が壊れる音を聴くこともなかったのに。
3
暗闇に管制塔の緋色の明かりが点滅する。
頭蓋の冠状縫合線みたいに交差する、地上の鉄道と国道。
その大小さまざまな道の上を、細胞を走る光の粒子のように、人間の痕跡が、ポツリポツリとうごめいている。
「すごいところに住んでるのね」
ガラスの向こうに広がる夜景を見下ろしながら、私は、思わず溜息を吐いた。住む世界が違うと思った。
地上30階のタワーマンションに住んでいる人間に対して、築30年の木造建築の借家住まいの女子が、他に何を言えるだろう。
煌びやかなものを全て集めたら、こんな生活が送れるのだろうか?
東京では美しいものだけが生き残る。
「僕がすごいわけじゃない」
そう言ってシャワーを浴び終えた私に、きみは暖かいハーブ・ティーを出してくれた。
「それに、以外と不便だよ。高層階まで上がるのに何分もかかるし。ごみ出しは面倒だし。近くのスーパーは高いし、冬は寒い。まあ、こんなところに住めるのは兄貴のおかげなんだけどね」
彼の兄は作家だった。大学時代に新人賞を受賞し、ベストセラーも出している若手の人気作家の1人だった。何度かテレビに出ているのを見たことがある。
1つの物事におさまっていられないタチらしく、幾つかの名義を使い分け――分野の異なる著作を執筆する傍ら、複数の大学で講師も掛け持ちしている。
「ご両親、日本にいないんだ」
写真立てに飾られた洋風建築の前でほほ笑む一家の姿を見ながら、呟く。
「うん。カナダにいる」
ジェラートピケの部屋着を身につけながらきみは言った。ちなみに、おそろいだ。ピンクと黒の色違いで、なんだか初めてお泊まりをする恋人同士みたいだ。
「なんで聞かないの?」
「何を?」
「私がなんで泣いてたのか」
一瞬の沈黙の後、きみはぼうっとした顔で振り返った。
「聞かれたいの?」
「気になるのが普通かなって」
「普通って何」
会話が途切れた。空気が張り詰めた気がした。何かおかしな言葉を口にしただろうか。
からだを重ねて泣くのは、当たり前のことなのかな。
「でも恋人同士だったんだよね?」
珈琲をカップに注ぎながら、きみは言った。
私はうなずいた。
「わかった。きみは彼が好きじゃないんだ」
沈黙が答えを教えてくれた。管制塔の明かりが大きくなって消えた。私は何も言えなくなった。
――どうしてそんなに鋭いのだろう?
「そうかもしれない。私は彼が好きじゃないのかもしれない。彼にも他に相手がいるのかもしれない。でも……そもそも好きとか嫌いとか、わからないの」
急に暖かいところにきた眠気のせいだろうか。私はポツリポツリと本音をもらすようになっていた。
「寂しさを埋めるために彼を利用しているんだね」
「そうかもしれない。じゃあ逆に利用されたって当然なのかな?」
「お互いさまだよ」
私は笑った。なぜ笑えるのかわらかなかった。なんとなく私は笑いたかったのだ。
好きでもないものに利用されて、嫌いでもないものに傷ついて。
そんな自分が、なんだかひどくこっけいに思えたのだ。
「好きって透明な感情だよね」
「透明?」
「うん。そうだよ」
「きみは誰かに恋しているの?」
「いじめられっこにも人を好きになる権利はある」
そう言って彼はベッドルームから毛布を引っ張りながら得意げに言った。その様子がなんだかおかしくて、
「そのとおりだよ」と私は同意した。そして続けた。
「きみの好きという感情はどんなものなの?」
「言葉が消える瞬間だよ」
「わかりにくいよ」
きみの話はいちいちわかりにくい。それでいて深い。表層だけじゃない、強さをもっている。
いつの間にか私はきみのことが気になり始めていた。
「好きっていうのは自分が透明になる瞬間なんだ。それに出くわした瞬間に自分が世界から消える瞬間なんだ。一瞬で世界から自我が消えて、言葉が消えて、言葉よりももっと広い場所に触れられる。自分の視覚とか五感とか肉体とか、そういったわずらわしい物理的な制約から解き放たれて、心だけの場所に触れられる。透明な心に出会える。そんなとても奇跡的な出会いを、僕は好きって思うんだ。伝わる?」
私は頷いた。意味は完全にはわからなかった。だけど感覚的にはすごくよくわかった。そうして私は自分の胸に手をあてた。
「私には好きがわからない。だから嫌いもわからない。これといって好きなものも、憎むほど嫌いなものもない。いまの私は何も感じていない中途半端な存在なんだっていうことがきみの話を聞いていてよくわかったの。私は透明にも不透明にもなりきれない半透明な存在なんだね。だからそれがつらくて泣いていたのかな」
きみは黙った。
「私にはやりたいこともない。夢なんていえるものもない」
「夢なんてもたなくていいんだよ」
きみは毛布の上にマフラーを重ねながら続けた。足元が寒いようだ。
「やりたいことをもたなければならない。夢をもたなければならない。そのためにはいい大学に入らなければならない。でもそれは社会におしつけられた価値観だ。そこに縛られている限り自由にはなれないんじゃないかな。そこにはきみがいない」
「どういうこと?」
私は一緒に毛布に足を突っ込みながら聞いた。広大な大理石のフロアは2人きりで息を潜めるには広過ぎて、虚しさだけが募った。
だから私はきみの近くに寄る。
きみは私の胸のすぐ上で言葉を重ねる。
きみは寡黙なときは一言も口を発さないのに、ときに恐ろしく冗舌で、あたまが良くて、そして、いつも私を戸惑わせる。
「何かをしなければならない。そう決めた瞬間にそれは本当にやりたいことではなくなっている。やらなければならない義務になる」
「なるほど」
「義務がきみを自由にするかな?」
「しないね」
「なぜ夢を持たなければいけないのか。それはしあわせになるためだと僕は思うんだ」
「しあわせ?」
湖面が揺らいだ。
紅茶に映る自分の顔が揺れてみえた。
「それは勉強して進学していい大学には行ってそれなりの企業に就職して、いい相手をみつける、ということじゃないの?」
「それこそが社会から与えられたものじゃないのかな」
「きみの話は難しいよ」
だんだん眠たくなってきた。私はあくびをかみ殺しながら聴いていた。
「ねえ。こんな話を聞いたことはある?」
「うん」
「朝ご飯にパンを食べるか。ご飯を食べるか。どっち?」
「ご飯」
「じゃあ、朝に珈琲を飲むか。紅茶を飲むか。どっち?」
「紅茶」
「それは自分で選択したものだよね?」
「うん」
「そう。そのはずだ。そうきみは思っているはずだ。じゃあご両親は? 朝、何を食べて、何を飲んでいる?」
「母は……紅茶が好きでよく飲んでる。うちは、母子家庭だから父親はいない。朝はご飯を食べてる」
「そうだよね」
「何でわかるの?」
「僕らは想像している以上に誰かの影響を受けている。つまりきみは朝にご飯を食べて、紅茶を飲む。それを自分の決断だと思っている。でもそうじゃないんだ。同じことは他のあらゆる局面においても言える。日々の選択にも、他人の行動が介入しているんだ。おうおうにして――僕らの行動や価値観や他人から与えられたものにすぎない場合が多いんだ。きみが本当に望んで決めたことじゃないんだ。きみが心から望むものはなんだい?」
「わからない」
「きみが心から好きだと思えるものは何かな?」
「わからない」
「きみが世界から自分が消えていると思える瞬間はあるかな?」
「ねえあったかい」
「それはよかった」
「そっち行っていい?」
「いいよ」
「もっと近く寄っていい?」
「ご両親が迎えに来るまでね」
そう言って彼は目を閉じた。私も少しの間眠った。
人間はあたたかい。誰かのぬくもりの感じられる地上30階建てのタワーマンションのソファベッドは、思ったよりも寒くなかった。
"――きみは彼が好きじゃないんだ"
その言葉が、浅い眠りのなかで、木霊していた。
"――普通って何?"
このときはまだ、その言葉の本当の理由を知らなかった。
(Illustration by ふせでぃ/Novel by 鏡征爾)
「痛みを感じる光だけが君を救う光になる」
イラストレーター・ふせでぃと小説家・鏡征爾による現代を生きる女の子を描く新連載。ふせでぃが描く“現代の等身大の女の子”と鏡征爾の少女的な感性かつ繊細な文体が誰かの心に寄り添いますように。
ふせでぃ
イラストレーター・漫画家。
武蔵野美術大学テキスタイルデザイン専攻を卒業。
現代の女の子たちの日常や葛藤を描いた恋愛短編集『君の腕の中は世界一あたたかい場所』(KADOKAWA)は発売即重版が決定。
最新作――『今日が地獄になるかは君次第だけど救ってくれるのも君だから』(KADOKAWA)
鏡征爾
小説家。
『白の断章』が講談社BOX新人賞で初の大賞を受賞。イラストも務める。
ほか『群像』や『ユリイカ』など。東京大学大学院博士課程在籍中。魚座の左利き。
最近の好きはまふまふスタンプと独歩。
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