頭上を目にみえない電波が飛び交っている。
寂しさには周波数がある。
「好きだよ」「愛してる」「会いたい」「妬いてる」「焦がれてる」
様々な感情が周波数にのって、遙か上空からきみの胸に着弾する。
愛は空気のように織り込まれる寂しい電波の集合だ。
それが本当の愛だと、そのときの私は思っていた。
きみに会うまでは。
1
私たちは怒ったり、泣いたり、笑ったり、哀しみに暮れたりしながら、ときどき言葉では説明の付かない感情に襲われる。
言葉より大切なのは感情である。そう教えてくれたのは絶対に叶わない想いを与えてくれた、きみだった。
言葉で切り取られる世界は、私たちがみている世界のほんの一部に過ぎなくて、言葉にできない感情こそ、本当なんだ。
そんな風に感傷的に、感覚的に、感情というものを教えてくれた。
あのときは私たちはあまりに若く、あなたも若く、美しかった。
その姿はもう何処にもないけれど、いまだにあなたのことを夢にみる。
だから私は物語を紡ぐ。
私に光を与え、不協和音を与え、そして身も心も引き裂かれるような感情だけを与えて消えた、その透明な心に触れるために。
これは初恋の物語だ。
誰にも打ち明けることのできない禁断の物語だ。
近くて遠い。遠くて近い。そんな淡い失恋の実話である。
「殺された」
翌日。クラスメイトの玲子が、教室脇の流しのシンクで水を飲んでいる私に叫んだ。顔は青ざめていた。私は意味がよく飲み込めなかった。
現場に行くと、きみがうずくまっていた。
その美しい顔は見るも無惨に腫れ上がっていて、上から炭酸水がかけられていた。
その水の飛び散り具合からして、校舎の最上階から面白がってかけたのだろう。
「う……」
かろうじて息をしていた。
殺されるという言葉が、大げさな表現だとは思えないほど、酷い暴力の後だった。
一歩間違えれば、本当に死んでいたかもしれない。
そして首謀者を、私はすぐに発見した。
「そいつとおれどっちが大事なんだよ」
Aが、手をぶらぶらさせながら現れた。その周囲で、腹を抱えて笑っている男子がいた。
「きのう、そいつの家にいくのを見たやつがいる」
「嘘つき」タクシーの速度についてこられるはずがない。私ははっとした。昼休みに履歴が消えていた。
「スマホを見たの?」
「無防備に置きっ放しだったからな」
「最低」そんなことをする人間の気持ちを、私は決してわからなかった。
わかりたくもなかった。
「正直にいえよ。やったんだろ?」
「ばかじゃないの?」
「ねえ先生呼んでこようよ」
「やったんだろ?」
「そんなことしてない」
「酷いと思うか? 当然の報いだろ。約束を破ったのは――人のモンに手を出したのはそっちだからな」
そこで、背後から音がきこえた。
何か、口から泡のようなものを戻していた。
その手足が激しく痙攣している。
「早く。誰か」
「おい。やべえぞ」
「救急車!」
一番慌てたのはAだった。
「すまん。やりすぎた」
必死で暴行相手に駆け寄ると、上着をかけて介抱した。男子の友情はよくわからない。
昔は仲良く話していたのをよく見かけたのに。
警報のサイレンが鳴った。救急車がかけつけた。
大事には至らないということだった。あたまのCTスキャンも異常はなかった。
すべてが終わった後。
職員室の前の冷たい廊下で、私まで並んで叱責された。
大人の論理はわからない。学校の論理もわからない。どうでもいい。
私はただきみのことだけを透明に感じ続けていた。
2
橋をわたる。
私は歩き続けている。
私たちは歩き続けている。
私ときみは歩き続けている。
吐く息は白い。きまぐれな天気予報はまた外れた。
雪は降らなかった。冷たい雨が降りてきた。
振り返ればきみと過ごした時間はいつも雨だった。
湖面には氷が張っている。じきにその河の氷が雨の水を打ちつける、透明な不協和音が聞こえてきた。
「よかったね。無事で」前を向きながら私が言った。
「心は無事じゃないけどね」前を向きながらきみが言った。
クラスメイト同士の喧嘩として、学校側は処理した。
ボコボコに殴られただけ、あくまでも一方的に無抵抗の相手を殴打して、軽い怪我をさせただけ――というわけだ。
「でも安心した」
「何が」
「脳に異常がなくて」
「それって揶揄?」
「何を言っているのかわかんない」
「や。冗談」
「冗談の意味がわかんない」
軽い外傷性ショックで済んだ。
硬膜下血腫の症状もでなかった。
CTやMRI検査でも異常はなかった。
何も、問題はなかった。
だけど何も問題はなくても、時間は容赦なく過ぎ去る。
現在は過去になり、過去は遠い過去になり、空想する未来が現実になる。
世界はつねに私を通り過ぎていく透明な記憶の集合だ。
「ねえ」
「うん」
「心は脳かな?」
「さあどうだろう」
「心が脳だったら脳が消えたら僕は何処に行くんだろう」
「私の頭蓋にいる」
「うん」
「私の記憶のなかにいる」
いま此処にきみはいい。
だけどたしかにあのとききみはそこにいた。
すぐ近くでガーゼの位置を気にしながら歩いていた。
症状は比較的すぐにおさまった。軽度で済んだのが不幸中の幸いだった。
「彼は大丈夫なの?」
「彼って誰」
私は知らないフリをした。
「きみの彼氏だよ」
「元彼氏だけどね」
だんだん橋の終わりが見えてきた。見覚えのあるタワーマンションが見えてきた。
ポツポツと揺れながら流れていく湖面の明かりが、水と体液と涙とでグチャグチャに絡まって、泣いている彼の姿を思い出させた。
彼は泣いて謝っていた。だが男の子なんてそんなものだ。
翌日にはスマホの画面を見てゲラゲラ笑いながら、ストーリーに動画をあげているに違いない。
私は決して彼を許さなかった。
許すことのできない理由があった、というわけではない。
逆に、許さずにすむ理由が欲しかったのだ。
そして、包み込むための理由が欲しかった。
それが私の正直な感情だった。
感傷なんて微塵もなかった。
「いいの?」
「うん」
誰もいない寝室で、押し倒されながら私はその色素の薄い髪を見上げていた。
「ねえ」
「なに」
「私のこと好き?」
「好きだよ」
重い女だと思った。だが間髪入れずにきみは言った。目を見て、私に告げてくれた。だから本当だと信じてしまった。
大切なフリをされている人形の目には、他の誰よりも敏感だったはずなのに。
それから不器用な音が流れ始めた。
意味もない音楽だ。意図も意志も感じられない、衣擦れと肌のこすれ合う音だけが、一定のリズムで刻まれ、日付が変わる前に終わった。
『好きって、透明だよね』
行為の最中、何度もあたまのなかをその言葉がめぐった。きみの言うとおりだ。全部きみの言うとおりだね。
シーツに染み付いた血は、私のものではなかった。傷付けられた場所からこぼれた、きみの血だった。
そのことが少しだけ悲しかった。
3
それでもそれが、初めて私が、自分の心に触れることのできた瞬間だった。
ポトリ。ポトリと落ちるきみの血が、指先をたたく度に、きみの存在を痛切に感じさせてくれた。
だけど、崩壊の足音は、すぐ近くまで迫っていた。
いや、最初から、すべてが壊れていたのだ。散らばった食器が割れ、ダイニングに愛らしいぬいぐるみや文房具が散乱するように。
そう。この物語は最初からすべてが終わっていて、終わる前から始まっていた。
好きな人の匂いに包まれながら眠る、そんな幸福感に浸りながら、ふとした瞬間に目を覚ました。
水の鳴る音が聞こえる。
バスルームの向こうから、シャワーを浴びるきみの音が聞こえてくる。
そのまま、眠りにつけばよかった。
そのまま、見ないふりをすればよかった。
だけど、自分の手元で点灯したケータイのメッセージを、見つけてしまった。
差出人はAからだった。
『お前が誰かのものになることが許せなかったんだ』
それは、謝罪文だった。
私は、呼吸を止めて、その文字を見つめた。
それから、自分の枕元を見た。
どちらも同じiPhoneだ。見た目には違いはまるでない。
だが、何かがおかしい。のどのあたりを、冷たい氷のような嗚咽が、痙攣しながら流れていく。
私は枕元のケータイをとった。
愛らしい猫の画像が映し出されている。
親からの追撃をかわすために、口封じをしたクラスメイトの女子からのメッセージが並んでいる。
間違いない。これは私のケータイだ。
では、いま、点灯したケータイは?
誰のものなのだ?
彼のものだ。
どういうことだ?
『 』『 』『 』
一瞬の思考の空白の後に、天啓のような「答え」が、雷撃となって私の頭蓋を貫いた。
それから、私は、一瞬、身動きができなかった。
確認すべき作業を、躊躇っていた。
脳裏に、自分が吐いた言葉が浮かんでいた。
"――スマホを見たの?"
"――最低"
そんなことをする人間の気持ちを、これまで私は、わからなかった。
わかりたくもなかった。
わかろうとも、しなかった。
だが、からだは勝手に動いていた。自制することすら、できなかった。
私の指先は狂ったようにケータイの画面をタイプした。
簡単な数字の羅列。0の羅列。1の連続。きみの誕生日。私の誕生日。そして、彼の、私がとてもよく知っている、きみを痛めつけたはずの相手の誕生日……。
暗闇がひらいた。
画面があいた。
ロックは解除された。
『気持ちには応えられない。それでもお前が誰かのものになることが許せなかったんだ』
そのメッセージが読み取れた。
それから、画像をスクロールして、そして、息をするのを忘れて、ただ画面に映る人物を、凝視していた。
そこには、Aの写真が大量に保存されていた。
視界が、震えた。
小刻みに世界が上下していた。自分の足元から感覚が失われていくのがわかった。
世界が瓦解して、土台から崩れ落ちてしまうような喪失を感じた。
"――普通って何?"
忘れたはずの言葉が、脳裏に次々とフラッシュバックする。
"――脳に異常って揶揄?"
"――きみは彼が好きじゃないんだ"
気付かないふりをしていたはずの違和感が、怒濤の如く押し寄せる。
『そいつとおれどっちが大事なんだ?』
『人のモンに手を出す方が悪い』
それは私に向けられたものであって私に向けられたものではなかった。
私が他の誰かと仲良くしていたことに対する嫉妬ではなく、その同性が私と仲良くしていたことに対する嫉妬だった。私を家に招き入れたことに対する嫌悪だった。
そしておそらくは、その「誰か」も同じなのだ。私の直感が告げていた。
『普通って何』『普通って何』『普通って何』その言葉がぐるぐると私の胸のなかで渦巻いて、遠回りしていた頭蓋が一つの答えを出力する。
きみも私を利用していたんだ。
私とつながりながら、間接的に私を通して、私とからだを重ねた彼を感じていたんだ。
私は触媒に過ぎなかった。
叶えられない透明な感情を成就させるための不透明な肉体に過ぎなかった。
私はからだを利用されていただけだったのだ。
水の鳴る音が止んでいた。
シャワーを浴び終えたきみが、私をみていた。
「みたの?」
ただ、それだけを訊いた。私は頷いた。彼は目を伏せた。
それが、答えだった。
「違うんだ!最初はそう思っていたけど、」
逃げるように素足で飛び出した私に、
背後からかけたきみの言葉は、うまく聞き取れなかった。
「きみと触れ合ううちに、僕はきみの心の痛みを、感じていたんだ……」
4
どうして早く気付かなかったのだろう?
大切なフリをされている人形の目には、誰よりも敏感だったはずなのに。この瞳が透明ではなく濁っていたから、感じられなかった。信じたくなかった。見たくはなかったんだ。
Aと私の関係は、純粋な恋愛関係ではない。
周囲からは付き合っていると思われているけれど、彼にとっては、選択肢の一つに過ぎない。そんなことはわかっていた。わかりきっているはずだった。
――なんとか思い出せるのは、第二音楽室での出来事。
――きみは大切な友だちの恋人で、私は大切にされた振りをしている人形だった。
それなりに社交的で、それなりに無難。
そんなどこにでもいる私だけれど、だからこそ、どこにも居場所がないと感じていた。
からだが、足りない気がした。
誰かに、触れたかった。
誰かに、触れてほしかった。
だから私もきみを利用していたに過ぎないんだ。
被害者ぶったって無駄だ。無意味だ。
汚れていたのは、私だった。
私は泣きながら夜の街を歩き続けた。
橋を渡る。自動車の光が流れる。湖面には厚い氷が張っている。背後の高層建築の明かりが遠ざかる。
音はもう鳴らなかった。雨はもう止んでいた。かわりに白いものが舞い降りてきた。
雪だった。
その透明な雪は、私の瞳に鮮明に射込まれて離れなかった。
地上では、氷点下に見舞われた深夜の河に、厚い氷が張っている。
鏡のように映る、氷のなかの自分に言った。
「とても、嫌い」
初めて自分の心が壊れてしまった瞬間の音を、きみは覚えている?
初めて自分の心に触れることのできた幸運を、きみは覚えている?
そのとき私はもう15歳になっていた。
それは遙かに遠く、それでいてすぐ昨日のことのように思い出す、灰色の冬の日の出来事。
半透明にくすんでいく、それでもたしかに透明だった、初めての感情を心に灯した日の放課後。
あのとき私たちはたしかに愛し合い、互いの心に触れ合い、そして心を壊し合った。
けれどその壊れた心は、たとえ割れたガラスのように砕けたとしても、
いまでも記憶のなかで結晶化して、宝石みたいな輝きを放っている。
だから私は物語を紡ぐ。
痛みを感じる光だけが、君を救う光になると思うから。
(Illustration by ふせでぃ/Novel by 鏡征爾)
ふせでぃ
イラストレーター・漫画家。
武蔵野美術大学テキスタイルデザイン専攻を卒業。
現代の女の子たちの日常や葛藤を描いた恋愛短編集『君の腕の中は世界一あたたかい場所』(KADOKAWA)は発売即重版が決定。
最新作――『今日が地獄になるかは君次第だけど救ってくれるのも君だから』(KADOKAWA)
鏡征爾
小説家。
『白の断章』が講談社BOX新人賞で初の大賞を受賞。イラストも務める。
ほか『群像』や『ユリイカ』など。東京大学大学院博士課程在籍中。魚座の左利き。
最近の好きはまふまふスタンプと独歩。
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