お金の力で幸せになりたい――「フルートが吹けるわたし」を夢見て、17万円のフルートを買った日(2/3 ページ)
フルートが吹けるようになったら、きっと。
フルートを買った日は暑すぎず寒すぎない過ごしやすい1日だった。
引きこもりにならないように散歩していたとき、楽器屋さんで「無料体験レッスン」の文字を見かけ、無料で遊べるなんていいなぁ、と吸い込まれるように楽器屋さんに入った。特に何の目的もなく商品棚を見ていると、茶髪の店員さんが話しかけてくる。ごめんなさいただふらっと入っただけなんで、と正直に打ち明けることはできなくて「音楽っていいですよねぇ~、わたしも何かできるようになりたいな~」と調子よく受け答えしていたら、「お姉さんってフルートとかやってそうですよね」と言われた。
フルートとかやってそう。
確かに、その日のわたしは肩から袖にかけてが黒のレース、胸から下は黒いベロア地でできたワンピースを着ていたから、この格好でフルートを持っていたらなかなかしっくりくるかもしれない。
「あー、フルートとか吹けたらかっこいいですね」と話しかけると、店員さんは「練習したらすぐできるようになりますよ、お姉さんセンスよさそうですし」と言ってくれた。
確かに。練習すればできるようになるだろう。当たり前だ。やればできる。フルート教室に通うとなると高いけれど、今はYouTubeがある。とりあえず楽器さえ手に入れれば、あとはどうにかなるだろう。
リコーダーと違ってフルートを鳴らすのは難しいという。ただ息を吹き込んでも音は鳴らず、フルートらしい音色を出すには訓練が必要で、時間がかかると聞いた。顎の方に向かってふーっと息を細く吹くといいらしい、けれど、わたしはフルート未経験者なので、よくわからない。音階をマスターする以前に、そもそも音を鳴らせない。
17万円の銀の棒を見つめながら、もしフルートが吹けるようになったら、と想像する。
フルートが吹けるようになったら。
きっと友達が会いに来てくれる。楽器ができる人間は愛されそうだ。バンドマンがモテるならフルートを吹く女もモテるはず。老若男女に囲まれて森の中にある切り株のステージに立ち、フルートを吹いている自分を想像すると俄然やる気が出た。
上達すれば、優しい音色に癒されてきっと前向きな気持ちになれる。今のわたしはやっと自著を出したはいいものの、毎日黙々とパソコンに向かうだけで、誰と話すこともなく、使えない原稿を量産するだけの薄暗い日々を送っている。けれどフルートがあれば少しの間その闇から離れられるかもしれない。
大体、趣味が読書しかないのもよくない。小説が売れればきっといろんな依頼がくるはずだ。もし、「エッセイお願いします」って依頼がきても、今のわたしじゃ読書感想文しか書けない。たいした引き出しもない人間だということがバレてしまう。でももしフルートが吹けるようになったら、フルートにまつわるエッセイを書ける。いつの日か講演会でも話に詰まったときにフルートを吹いて場を和ませられる(講演会の依頼がきたことはないけれど)。
いいことづくめだ。フルートが吹けるようになればつらいことがあってもがんばれそうだし、小説が売れたときに良いネタにもなる。このフルートはわたしの人生を支えてくれる銀の棒だ。これは自己投資だ。我ながら悪くない計画だ。ただしフルートを習得するには時間がかかりそうだ。だから楽器を始めるなら今しかない。若いうちにやるべきことのひとつだろう。20歳そこそこで気づけたわたしは賢い。今だ、今!! と清水の舞台から飛び降りる気持ちで一括購入した。めまいがしたから、ずっと左手の人差し指の先をぎゅっぎゅと握りしめていた。
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