コラム

世界文化遺産都市を駆け巡る「かわいいプラハの路面電車」ディープな歴史とその魅力に迫る(2/3 ページ)

魅力的すぎるレトロなトラムもたくさん。チェコ共和国のプラハ市交通博物館とプラハ市電に「乗り鉄」してきました。

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プラハ路面電車の歴史:はじまりは馬車鉄道から

 プラハ市電が開業したのはオーストリア=ハンガリー帝国統治下の1875年のこと。プラハ市北東にあるカルリーンから国民劇場まで「馬車鉄道」が開業しました。プラハ市交通博物館には1886年以降に使われた車両が展示されています。

 上半分が外気にさらされるオープンエアのトロッコ型客車であることから「夏の車両」と呼ばれましたが、なぜか涼しい日に運行されていたようです。その後、路面電車への対応工事を受け1925年まで活躍しました。


プラハ市電は1875年に馬車鉄道として開業した

 電気運転は1891年に開始しました。第一次世界大戦前に製造された電車の中で独特な存在が「サロンカー200号」です。

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 サロンカー200号は同時期に製造された車両と比べると、側面の窓が大きいのが特徴。主にツアー向けの貸切列車として使われ、「市長」というあだ名で1970年代初期まで活躍しました。200号は1900年のパリ万博に出展され、1951年まで代々のプラハ市長を乗せました。そんな経緯から市長と名付けられたと思われます。


「市長」と呼ばれたサロンカー200号

 第一次世界大戦が終わり、チェコは「チェコスロバキア共和国」として独立しました。独立後、多くの2軸車(車軸が2本、車輪が4つの車両)が製造されました。

 付随車(動力を持たない車両)を引っ張る「電動車(モーターを備えて自走できる能力を持つ車両)」の2294号は1932年に登場しました。なお、第一次世界大戦から第二次世界大戦の間に製造された車両は観光用として、今なお41系統に使われています。

 この車内はうっとりしてしまうくらいにレトロです。シートは木製。2軸車特有の揺れが直に伝わってきます。


第二次世界大戦までは2軸車が主力だった

レトロ感たっぷりの車内。41系統には第二次世界大戦以前の車両も未だ使われている

チェコ市電の代名詞「タトラカー」の歴史と変遷

 チェコはドイツ労働者党(ナチ党)政権下のドイツに併合されますが、第二次大戦後は再びチェコスロバキアとして独立を回復します。しかしチェコスロバキアは共産主義陣営に組み込まれ、ソビエト連邦の衛星国家として歩むことになります。

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電車に掲げられたチェコスロバキアとソビエト連邦の国旗

 戦後復興により、プラハ市電の需要は急増。これまでの単車では需要に追いつかない状況となります。そこで登場したのが米国のPCCカーの技術を取り入れたボギー車「タトラカー」です。

 PCCカーは1930年代に米国の電気鉄道社長会議委員会(Electric Railway Presidents' Conference Committee)によって開発された路面電車車両およびその仕様・規格。高加減速、低騒音が売りで、直角カルダン駆動などの新技術を採用していました。運転台は自動車と同じく足踏みペダル式です。


「タトラカー」は米国PCCカーの技術を取り入れて開発された

 ところで第二次大戦後といえば、米国の中心とする自由主義陣営(西側諸国)とソビエト連邦を中心とする共産主義陣営(東側諸国)が激しく対立した時代です。東西冷戦時代と呼ばれました。共産主義陣営だったチェコスロバキアがなぜ米国の技術を採用できたのでしょうか。

 タトラカーは、終戦直後からチェコのCKDタトラ社と米国の間で交渉が進められ、PCCカーのライセンス生産に関する契約が成立したのは1947年のことでした。その翌年の1948年にチェコスロバキアで共産党一党支配体制が確立し、冷戦が激化します。契約はギリギリセーフでした。

 初代タトラカー「T1形」は1951年に登場しました。米国PCCカーの窓は上部が固定されている”バス窓”で知られていますが、T1形は通常の二重窓でした。初代のT1形は何と1980年代後半まで使用されました。ちなみに形式の”T”は、タトラの頭文字ではなく「電動車=Triebwagen」を意味します。

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初代「タトラカー」は1980年代後半まで活躍した

 T1形の改良系にあたる「T2形」は1955年に登場。総計700両以上が製造され、チェコスロバキアだけでなくソビエト連邦にも納入されました。

 当時チェコスロバキアは共産主義陣営の経済協力機構「コメコン(Council for Mutual Economic Assistance/経済相互援助会議)」に所属していました。国内の生産物は共産主義国へ優先的に輸出されたのです。


タトラカー第二世代であるT2形。1955年に誕生した

 タトラカーの代表車が「T3形」です。T3形は1960年に登場し、約2トンの軽量化に成功しました。「タトラカーの決定版」として1989年まで約1万4000両が製造されました。

 プラハ市交通博物館にある車両は「登場時」のスタイルで展示されています。2019年現在はLED式の系統行先表示機が設置され、ドア横の小さな系統板は撤去されています。

 23系統には登場時に近い形のT3型が運行しています。その車内は駅のベンチのようなプラスチックシートが1席ずつ2列並んでいました。

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約1万4000両が製造されたT3形

車内改造を受けたT3形も多い

 このT3形も共産主義陣営の諸国に輸出されました。例えばラトビア共和国のリガでは、集電装置がパンタグラフからトロリーポールに変更されたT3形が活躍しています。

 実は日本へも「土佐電気鉄道(現とさでん交通)」(関連記事)に譲渡されました。しかし残念ながら本格的な営業運転に就くことなく廃車となりました。2019年12月現在、タトラカーT3形が走っている日本に最も近いの都市は「北朝鮮の平壌市電」です。


リガ市電の車両はトロリーポールが特徴

 一部のT3形は低床式に改造されています。塗装はまるで金太郎(の前掛け)のような色で、遠目からでも目立ちます。


金太郎カラーのT3形は中央が低床式に改造されたもの。色合いはロマンスカーSEにも似ていて親近感沸きまくり

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