「ゴジラ-1.0」レビュー 見過ごせない“マイナスポイント”と、今この怪獣映画を見るべき理由(1/2 ページ)
神木隆之介の絶望からの殺意に満ちた目は必見。
映画「ゴジラ-1.0」が11月3日より公開されている。結論から申し上げれば、トータルではとても面白かった。予告編にもある銀座のシーンはスクリーンで見届けてこそ真の迫力と絶望感を味わえるだろう。後述するように戦後間もない時代背景ながらコロナ禍を想起させるところもあるので、リアルタイムで劇場に駆けつける価値もある。
ただ、監督・脚本・VFXを務めた山崎貴の作品だと「良くも悪くも」意識させられる部分が多かった。いや、はっきり「悪癖」といえる特徴がノイズと感じたのも事実だったのだ。称賛ポイントをあげつつ、その理由もネタバレになりすぎない範囲で記していこう。
※以下、核心的なネタバレは避けつつ、全体的な物語の流れやキャラクターの特徴について記しています。
元特攻隊員の視点で「矛盾」と「後遺症」を示す
まず設定として秀逸だったのが、神木隆之介演じる主人公・敷島浩一が「元特攻隊員」であることだ。彼は「お国のために死ぬ」という大義名分と自己犠牲を押し付けられ、それに耐えかねていたころで終戦を迎える。そしていざ生きて故郷に戻ってくると、東京は焼け野原となっており、そうした惨状が責務を全うしなかった敷島らの責任だとなじられてしまうのだ。こうして、太平洋戦争終結後もサバイバーズ・ギルト(自分だけ生き残ってしまったという罪悪感)を背負い、生死に関する矛盾した感情が彼の中で渦巻いていくこととなる。
そうした中で追い打ちをかけるように襲いかかるのが、ようやく復興してきた銀座の街を蹂躙(じゅうりん)していく怪獣・ゴジラなのだ。
戦争終結からわずか9年後の1954年に作られた初代「ゴジラ」も戦争の「後遺症」を強く感じる作品だったが、今回の「ゴジラ-1.0」では特攻隊員であったころの記憶が生々しく残る主人公を設定したことで、「泣き面に蜂」というレベルを超えた絶望的な感情へ説得力を持たせていている。山田裕貴演じる、戦争の経験がなく、やや浅薄なところもある若者も主人公の対比となるキャラクターとしてうまく機能していたと思う。
また、ゴジラ上陸の危険が迫っているのに、政府の対応が遅々として進まず、市井の人々が「自分たちで選択し行動しなければならない」不安と混乱に追いやられる様は、コロナ禍の社会情勢にも重なって見える。事実、「ゴジラ-1.0」の劇場パンフレットでは、コロナ禍のために制作が一時中断となっただけでなく、脚本(物語)にも少なからず影響があったことも語られている。東日本大震災を連想させた2016年の「シン・ゴジラ」に続き、ゴジラ映画がまたしても「その(少し前の)時代を示した」と言えるだろう。
絶望からの作戦会議、そして決戦へのプロセスの面白さ
映像面での迫力は多くの人が認めるところだろう。やや極端で現実離れしたシチュエーションもあるものの、銀座での光景は絶望そのものであるし、海上での攻防戦の画も目を見張るものがある。ゴジラの造形もスタイリッシュで、「熱線を吐くまでの動き」にも感動した。ハリウッドに比べてはるかに予算がない中でもこれだけの映像を作り出せたのは、山崎監督と映像制作プロダクション・白組による長年の技術の積み重ねがあってこそだろう。
その銀座を破壊し尽くすシーンがあるからこそ、その後の神木隆之介のゴジラへの殺意に満ちた顔つきや、その他渦巻く複雑な感情にも同調できる。
また、そこから展開する「作戦」のプロセスも面白い。計画に批判や不安の声がぶつけられ、絶対に成功する保証もない中で、それでも可能性を信じて、予備の作戦まで考案して着実に準備を重ねていくのだから。
発想そのものはとっぴでも、「これらなら勝てるかもしれない……!」とキャラクターと共に「作戦に乗っていく」ことにワクワクできるし、さらに決戦のシチュエーションとアイデアそのものが「今まで見たことがない」ほどに斬新であった。
思い切りクリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」を連想させる場面が出てくると、それもまた「好きなものを自分でもやってみる」山崎監督らしくて、個人的にほほえましく思えた。
伊福部昭によるおなじみのテーマ曲も心から「待ってました!」であったし、その後のクライマックスとラストも納得の行くものだった。前述した戦時中または戦後の人々の葛藤や矛盾は山崎監督の「永遠の0」や「アルキメデスの大戦」に連なるものであり、今回の着地はややシンプルすぎるきらいもあるが、それはそれで重要なメッセージを込めた誠実なものだったと思う。
山崎貴監督の“悪癖”がはっきり出ている問題も
そんなわけで、VFXを筆頭に映像面では十分すぎるほどのクオリティーであり、しっかりしたエンタメ性とメッセージ性も山崎監督の良いところが発揮されていて良かったのだが……その反面、はっきりと“悪癖”と呼ばざるを得ない部分も出てきてしまっていた。
最大の問題は、あまりに大仰なセリフと演出が多いこと。キャラクターそれぞれが舞台劇のように声を荒げながら、思っていることを全て口で説明するような不自然さが、多くの場面でノイズになってしまったのだ。前述したように主人公の設定とアイデア、神木隆之介の表情はとても良かったのに、その言動の切実さを「信じきれない」ことが何よりも残念だった。
さらに気になったのは、佐々木蔵之介が「ハッハー!」と大きな声で(意図的にせよ)わざとらしい笑い方をするなど、悪目立ちする演技が多かったこと。彼は戦争終結直後の政府の欺瞞を示す重要な立ち位置であり、良い意味でクセのあるキャラクターとして見ることもできるが、どちらかといえば当時の人々を悪い意味でカリカチュアにしたように感じてしまった。
また、元特攻隊員である主人公のみならず、「お国のために死ぬ」ことを要求された戦争終結後に、また命を失う危険のあるゴジラを倒す作戦に駆り出されるという構図があり、それに対しての人々の葛藤や決意ももちろん描かれているのだが、会議に参加していた人々の演技もやはり不自然さが目立ち、演出が悪い意味で「美談っぽく」見えてしまうところもあった。前述したような戦争終結直後の生き死に関わる矛盾を提示するのであれば、もう少しフラットな描き方があっただろう。
他にも、浜辺美波演じるヒロインは初登場時には斜に構えたようなところがある不遜なキャラクターだったのに(劇中で描かれていない数カ月から数年の時間経過があるとはいえ)急に主人公をひたすらに肯定するしおらしい性格に変わったように思えた。隣人役の安藤サクラも、初登場時には主人公を糾弾するイヤな人だったのに、いつの間にかいい人になっている唐突さが否めなかった。
さらに、肝心のゴジラが登場する場面でも、説得力に欠いた部分が見受けられた。銀座のシーンで浜辺美波が「ああなる」ことにはやや無理を感じさせたし、クライマックスのとある人物の行動にももう少しだけでも伏線が欲しかったところだ。
これらは役どころを演じた俳優ではなく、脚本・演出を手掛けた山崎監督の責任が大きいだろう。「アルキメデスの大戦」ではあまり気にならなかった、「台詞回しが直接的すぎて不自然で大仰」「キャラクター描写が書き割りっぽく思える」という山崎貴監督の悪癖が今回で盛大に復活してしまい、そのせいで個人的には90点くらいあった作品の評価が30点くらいマイナスになってしまったのだ。
ただ、その山崎貴監督の悪癖だけで本作を全否定したり、「ゴジ泣き」などとネタ消費してしまうのはもったいない。日本の怪獣映画が「ここまで来た」と思える映像面での迫力、コロナ禍を経てまたもやゴジラ映画が「その時代を示した」ことに意義があるし、クライマックスには確かな感動もあったのだから。
何より、ゴジラという日本のビッグコンテンツを劇場で観られるのは、一種の「祭り」であり、その祭りの後に文句も含めた議論をぶつけ合うのもまた楽しいことだ。まずは、リアルタイムで参加してみてほしい。
(ヒナタカ)
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