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YouTuberにあこがれる子どもから、可能性の芽を摘まないために

子どもはみんなダイヤモンドの原石です。連載「ネットは1日25時間」。

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 都内随一のオフィス街・品川駅を降りると構内のあちらこちらにデカデカと貼られているYouTuberのポスターは、その職業の特殊性を背景にした「好きなことで、生きていく」というコピーのアバウトな自由さと楽しそうなYouTuberたちの絵面の強さをもって、満員電車に乗って日々をせわしなく働くビジネスパーソンたちを存分に煽ってくるのですが、肝心のビジネスパーソンたちは忙しくてそんなの見てらんないよって具合で広告に目もくれずツカツカと改札を飛び出していきます。

 先ごろ発表された「子どものあこがれる職業ランキング」の上位に食い込むほど子どもたちからの熱い支持を受け、ときに大人ですら誘い込み、ひとつの職業として順調に市民権を得つつあるYouTuberですが、日本国内においてYouTuberという職を専業にして生活を整えているのはわずか数十名ばかりであり、その数は現役の野球選手よりもはるかに少なく、今の子どもたちが大人になるころにはある程度マネタイズのシステムが確立されるなど環境の変化もあるだろうとはいえ、現状はお笑い芸人や歌手などといった芸能関係の職業と同じ立ち位置にあると言えるでしょう。

 昨今は多数のお笑い芸人などがYouTuberに活路を見出し、各々で作成した動画を公開するものの、テレビや舞台との勝手の違いは相当に大きいのか、いまひとつパッとしない状況が続いています。テレビとは求められているものが全く違うタレント性や、どういった切り口がネット世代の心をつかむのかを理解するセンスも要求される以上、YouTuberの台頭はテレビとネットが共存の難しいコンテンツであることをさらに明確にしています。 

 個人的なことを言うと著名なYouTuberと呼ばれる方々の動画をひと通り見てもあまりピンとはこず、おそらく子どものころに見ていてもあこがれを抱くことはないんだろうな、と思ったのですが、それでもこういったキャラクターや手法にあこがれる子どもが現れることは実に納得の行く話ですし、YouTuberのような職業が当たり前になりつつあること自体、社会と文化の適切な進歩だと言えます。

 脱サラしてYouTuberに転向したものの、結局はHIKAKIN氏と同じことをHIKAKIN氏よりはるかに低いクオリティでやるだけで、オリジナリティもスキルもない底辺YouTuberがひと花咲かせることもなく消えていく、そんな悲しい状況は枚挙にいとまがありませんが、それでもなおYouTuberという職業は幅広い世代を惹きつける魅力が押し出されています。

星井七億コラム

子どもがYouTuberにあこがれるリスク

 先ほど、YouTuberは芸能関係の職業と同じ立ち位置だと書きましたが、それらと明確な違いを見せるYouTuberという職業の特殊性は、子どもがあこがれる職業とはいっても「将来的に目指す職業」ではなく「今すぐにでもなれる職業」だという点です。ライターでもお笑い芸人でも新興宗教の教祖でも、世の中には名乗っただけで成立する職業が数多あり、特別な資格や組織への所属などもいらないYouTuberもそのひとつです。

 「子どもが撮影環境を整えられて編集作業に取り組めてネット上にアップできる状況にある」というのはある程度、育っている家庭の経済環境が良かったり、ITに関して歳相応以上に高い教育を受けているかでないとできないことではありましたが、昨今はスマホやSNS、動画サイトなどといった環境の変化によってそれが手軽に行えるようになり、自撮りブームに背中を押され以前ほどのハードルの高さはなくなりました。

 よって子どもたちが自らの意思ですぐにでもYouTuberを名乗り活動できる環境がすっかり整えられているその一方で、自らの顔や素性を世界中の誰もがアクセスできる形で公表するということのリスクは大変な危険を伴っております。自撮りブーム全盛の昨今とはいえネットリテラシーの低い子どもたちが己の姿を撮影した動画を投稿し続けるのは、YouTuberへのあこがれなどという言葉でごまかして看過することはできず、心無い人間に映像を悪用される可能性も充分にあります。もっとも子どもがアップするたいがいの動画は「再生回数12回」などと書いてあるのでそういう心配もいらないのかなという気がしなくもないのですが、世の中にはどのような危ない人間がいるのか分かったものではありません。

 そういったリテラシーに関する部分は我々大人がしっかりと導いてあげるべき場面ではあるのですが、無限の可能性とそれを開く道具を持った子どもの行動を、細部まで監視はできませんし、きちきちと縛り付けるにも可能性や才能を殺す結果を招くことにもつながりかねません。目の前に半開きのドアがあったら石橋を叩く仕草を見せる前に、ドアを蹴破る衝動を持っているのが子どもの特権です。

 YouTuberという職業は、なること自体の気軽さに対してその成功率の低さ、生業としての不安定さ、そして「好きなことで、生きていく」という煽りで不安定な仕事に人を誘う手法に、それは無責任だという批判も集まっています(もっともどんな職業に就いて痛い目にあったとしても、誰かからの強制であったり社会的に理不尽な扱いを受けていたり組織による適切なリスク管理が設けられてなかったりなどがなかった場合は志した者の自己責任ではないかという気がしなくもないのですが)。

 ではYouTuberにあこがれる子どもに対し、大人の立場として我々はどのような言葉をかけられるのでしょうか。

星井七億コラム

YouTuberへのあこがれはあくまでひとつのステップ

 「好きなことで、生きていく」ということ自体は大変に難しいことですが、もちろん何も悪いことではありません。「生きていく」ということが生業とすることなのか、趣味嗜好習慣として続けていくことなのかの違いにもよりますし、それが人間にとって絶対の幸福であるということも決してないのですが、自分の好きなことが分からない、やりたいことがあるんだけれど試したり挑んだりできる環境にないといった状況よりははるかに幸せです。

 しかし、いくらYouTuberが現状、好きなことで生きていくための無限の可能性を提示できる(かもしれない)コンテンツであり、今後の発展も見込める分野であるとはいえ、まだまだ油断はできません。

 それは将来的にYouTuberが職業として安定の獲得や特定分野の最前線を走っている可能性があれば、YouTubeがすでに時代遅れのコンテンツになっている可能性があるからです。子どもたちの才能やセンス、これをやりたいという衝動は「YouTuber」としても表現できるのかもしれませんが、彼等が大きくなって技術やリテラシーを蓄えて、技術が進歩しているころには、表現やマネタイズの場としてもっと適切なコンテンツが生まれているころ、自ら編み出すことができている場合もあります。ネットは自分たちを適切に扱える可能性を持つ人間を待っているでしょうし、人間もまたネットに対し自分たちに適した未来を与えていきます。

 YouTuberという職業自体、タレントであったり、広告マンであったり、パフォーマーであったり、さまざまな職業と現代技術の融合したキメラのような存在であり、現在発展途上の最中にあります。似たような形式でも全く別の方向性からアプローチできる媒体がそう遅くないうちにいくつも生まれてくるでしょう。子どものあこがれや目標は無垢な分だけ強烈ですが成長の中でいくらでも変化を遂げていきます。YouTuberとして何かを表現したい、という情熱をそのままにまずはさまざまなことを学び、ネットの目まぐるしい進歩と変化をリアルタイムで受け止めながら、ゆっくりと自分に適した表現の場を模索させる必要があります。子どもたちの「YouTuberになりたい」というあこがれそのものは、本当により多くの人が「好きなことで、生きて“いける”」ための将来を築くステップのひとつでしかありません。

 「YouTuberになりたい」ということが、自分のやりたいことを表現するための適切な場が今のところYouTubeしかないのか、ネットでの活動やビジネスにもっと先のビジョンを見据えているのか、それともノリだけでHIKAKINの真似事をしたいだけなのか……。“好きなこと”とはなんなのか、大人は子どもたちの声をしっかりと聞き、その可能性を伸ばす方向でアドバイスや手助けを心掛けたいものです。もっとも、大人になってもその裁量が分からずに身を持ち崩す底辺YouTuberを見ていると、大人というだけで子どもの夢に胸を張って口を挟むことが難しい世の中ではありますが……。

プロフィール

 85年生まれのブロガー。2012年にブログ「ナナオクプリーズ」を開設。おとぎ話などをパロディー化した芸能系のネタや風刺色の強いネタがさまざまなメディアで紹介されて話題となる。

 2015年に初の著書「もしも矢沢永吉が『桃太郎』を朗読したら」を刊行。ライターとしても活動中。


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