なぜ日本は偏差値が嫌いなのに使い続けるのか 考案した元・中学教員が語った“生徒のために作った偏差値が悪者になるまで”(3/3 ページ)
もともとは“教員の勘”で行われていた合否判定を、合理的に行うために生まれた数式。
昭和36年、偏差値が広まる転機
桑田氏は、偏差値を同僚たちと共有しましたが、生徒には秘密にしていました。理由の1つは当時、「人間の知能は生まれたときすでに決まっている」と広く信じられていたことです。もし生徒に自分の偏差値を教えてしまったら、それが「あなたはこの程度の知能の持ち主で、この程度の生き方しかできない人間だよ」という宣告になってしまうかもしれません。それは避けたい、というのが桑田氏の想いでした。
しかし、箝口令を敷いたわけではありませんでした。そのため、「あの中学では桑田先生が考案した画期的な方法で受験指導をしているらしい」といううわさが徐々に広まり、偏差値の存在が知られるようになります。
転機―― それも良くない転機が訪れたのは、昭和36(1961)年のことです。
それまで桑田氏は、テストのたびに偏差値を一人でコツコツと手作業で計算していました(当時はまだ、コンピュータは普及していませんでした)。ところが、出入りのテスト業者である進学研究会が、「うちのテストを使ってくれたら、代わりに偏差値を計算します」と申し出てきました。桑田氏はこれ幸いと、その申し出を受けます。
2年後の昭和38年、桑田氏は進学研究会に転職し、偏差値を社内で啓蒙します。間もなく偏差値は、点数と順位に代わって、テストの成績や進学情報を表す主要な方法となりました。桑田氏はこのときもなお、偏差値は生徒に知らせるべきでないと考えていました。しかし、同社のテストを利用していた多くの学校の先生たちは、そうではありませんでした。
偏差値は、便利だったのです。生徒たちに直接その値を見せれば、努力目標が明確になるのですから。
「反偏差値」キャンペーン
昭和40年代の半ばを過ぎた頃には、地方のテスト業者や学習塾などによって、全国津々浦々にまで偏差値が広まります。
そして昭和50年12月、ついに読売新聞の一面に、このような見出しが躍ります。
「高校入試に跋扈する偏差値」
内容的には偏差値の定義や計算方法を説明したもので、それほど扇動的なものではありませんでした。しかし翌日から、各社が後を追います。
「広がる“偏差値騒ぎ”――入試基準にした例も」「いま学校で――中学生」「教育を追って――」
新聞社が足並みをそろえて「反偏差値」キャンペーンを打ち出したのです。
このきっかけとなったのは、これらより少し前に発行された朝日新聞社の教育総合雑誌『のびのび』(昭和50年12月号)でした。そこには、このように書かれていました。
「高校受験の季節。いまの中学校では偏差値という名の数字が猛威をふるい、中三の生徒を、優越感、劣等感、ねたみ、不安、いらだち……の渦にまきこんでいます。進学テストの結果によってはじき出されるこの数字は、生徒をふりわけ、先生はこの数字に基づいて進路指導をおこないます」
さらに同雑誌は、首都圏の大部分の国・私立高校合格者の偏差値平均を載せていました。現代の私達にとってはおなじみの「東大の偏差値は72」などというあれです。これは、桑田氏が最も忌避していた使われ方でした。
「情報を作る人・偏差値を使う人の品性の問題である」
桑田氏は『よみがえれ、偏差値』の中で、このことについて次のように書いています。
「私は偏差値をこういう形で使われるのを最も嫌ってきた。心が失われるからである。だから、私自身はもちろん、私の力の及ぶところでは絶対に作ることを許さなかった。二十年も前のものであるにせよ、本書に引用してよいものかどうかずいぶん迷ったほどだ。
こういうやり方は、人前に、人を顔の美醜の順に一列に並べさせるようなもので最も慎むべき行為である。ことに教育にかかわる者は、もっと心を大切にしなければならないと思っている」(『よみがえれ、偏差値』P.232〜233)
桑田氏は偏差値の本来の使い方を広める活動を始めました。しかし「反偏差値」の波はすでに大きく広がり、それまで喜んで使っていた先生たちや受験生たちも非難し始め、平成に入ると当時の文部大臣までもが「反偏差値」を語りだしました。
偏差値は本来、教員の勘に頼った不合理な受験の仕組みから生徒を救い、科学的合理的にその人の持つ可能性を教えてくれるものだったはずです。それがなぜ、世間の非難を浴びるようになってしまったのでしょうか。
桑田氏はこの理由を、「心」がなくなったからだろう、と述べ、次のように続けています。
「もともと教育という営みは、教師と生徒の心の通い合いによって支えられて成り立ってきた。とりわけわが国のように儒教的文化が底流になっている教育風土では、科学技術が目覚ましい進歩を遂げて高度な情報化社会になった今日でも、そうした関係の要求はほとんど変わっていない。偏差値も、教師がそろばんや電卓と計算尺で作っていたときには、意識のなかにはつねに子どもたちの顔があったし、できあがったそれには教師の汗の臭いや手のぬくもりが感じられたものだ」
「偏差値の品性が悪くなったことについては、偏差値には直接の責任はない。偏差値を使って伝えられる受験・進学情報のなかに、わが国の教育のあり方とか青少年の将来の幸福とかを真剣に考えている心ある人々のひんしゅくを買うようなたぐいのものが少なくなくなってきて、そのことがいかにも偏差値が低俗なものであるような印象を与えるようになったのである」
「ことに偏差値騒動の後の受験・進学関連情報はエスカレートして、慎みやゆかしさが乏しくなった。これは情報を作る人・偏差値を使う人の品性の問題である」(いずれも『よみがえれ、偏差値』P.242〜243)
善意から生まれた数字がその後、悪者扱いされるというのも不思議な話。偏差値は受験生を助けるために考案されたものであって、決して受験生を苦しめるための存在ではありません。ましてや人や学校を格付けするためのものでもありません。
偏差値を使えば、自分が平均からどのくらい離れた位置にいるのかが分かり、そして、あとどれだけ上げれば希望する道へ進めるのか、そのためにどの分野に力を入れればいいのかも分かります。
偏差値というのはただそれだけのもので―― 受験生を支える味方だったのです。本当は。
(キグロ)
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