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「夢や希望もありゃしない世界」 窪田正孝×西野亮廣インタビュー、“バッシング社会”で生き抜くために(2/3 ページ)

「大人になるにつれ、なくしていくものの方が多い気がしていて」。

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「えんとつ町のプペル」の出発は自叙伝だった

西野亮廣 窪田正孝 えんとつ町のプペル

――続いて作品について。えんとつ町では、煙の向こうに“星”があるなんて誰も想像すらしなかった世界。空を見上げることをばかにされてしまうのが大きなテーマだと感じました。日本の現代社会とリンクした部分があると思ったのですが、もともと現実とリンクさせたいという構想があって、作品としてアウトプットしたのでしょうか? このテーマを描きたかった理由を教えてください。

西野亮廣 窪田正孝 えんとつ町のプペル

窪田: 僕も聞きたいです!

西野: 窪田さんの前でこんなことを言うのも恥ずかしいんですが……。始まりは自叙伝なんです。自分が25歳のときに「もうテレビやめよう」と思って。端から見ると順風満帆だったんですけど「テレビに居てても、世界獲れるんだっけ?」とか「言語に依存しちゃっているな」と考えたときに、「世界のエンタメを獲ることにつながっていないかも」と思って、新しく仕事を取りに行くことは絶対しないと決めて、テレビから軸足を抜きました。

 そこからは、やったこともない絵本を描き始めたんですが、その時のバッシングがすごかったんですよ。「何で芸人が絵本を描いているんだ」「芸人だったらひな壇出ろよ!」などといわれて。バッシングがもうファッションみたいになっていて。当時はメディアも総出で「あいつはダメだ」みたいな感じに報じていました。

 だから、「あれ、何でこんな言われるんだろう?」「別に誰かに迷惑を掛けているわけでもないのに、自分の時間を使って挑戦をしたら何でこんなことを言われるのかな?」という疑問は強くあって。そのときに、自分に刺さる話を書くことは、自分と同じような目に遭っている人にも刺さるだろうなと感じて、自分の話を書けばいいと思ったんです。

西野亮廣 窪田正孝 えんとつ町のプペル

窪田: なるほど。

西野: そんなところからスタートしたんですけど、「夢を語れば笑われ、行動すればたたかれるこの現代社会を、何に置き換えたら一番しっくりくるかな?」と思ったときに「えんとつ町」になったんです。煙もくもくで空を見上げることも知らないし、見上げる人はとにかく徹底的にたたかれる、という町です。

西野亮廣 窪田正孝 えんとつ町のプペル

 でも、コロナ禍で意味合いがちょっと変わりましたね。僕一人の話かなと思ったら、世界中のみんなの夢や希望もありゃしないみたいな世界になってしまって。たまたま映画の公開時期に世界がそうなってしまった。もともとは自叙伝だったのに、今の世界を反映したような話になったんです。

窪田: でも何でそうなったんですか? ごめんなさい、聞きたくなっちゃって。

西野: やっぱり、みんなどこかで折り合いはつけたんだろうなとは思います。要は、芸人もみんな最初は、冠番組を持ったりとか、いろいろやりたかった仕事があったはず。でも、どこかで折り合いをつけている。そんな中で折り合いも付けずにバッと新しいことを始めちゃうのは、折り合いをつけた人からすると、あまり気持ちの良いものではない。

窪田: なるほど。

西野: その後のバッシングはまた種類が違いましたけどね。2012年〜2013年にクラウドファンディングをしたんです。「広告費でエンタメをまわす限界が来た」と思っていた時期。テレビの広告費がどんどん落ちていく中、どんどん表現が小さくなっちゃうと感じて「これダメだ」と思って。

 2012年から「広告費はいらない。とにかくダイレクト課金だ」って。挑戦に直接課金してくれる人を何人作るかの方が、大きい挑戦ができるなと思って。2012年あたりから、クラウドファンディングを積極的にやるようになったんです。今でこそ一般化してきましたが、当時はクラウドファンディングなんてみんなまだほとんど知らなかった。だから「宗教だ」「搾取だ」って。まるで悪いことをしているみたいな風にいわれて。

窪田: みんな知らないからですね。

西野: そうなんです。だから、「知らない」ことと「嫌い」という感情は極めて近い位置にあるなと。みんな嫌いだから嫌っているわけではなくて、知らないものを嫌っているケースが結構多いなって思います。基本的に「知らない」ことをやると、たたかれることはありました。

西野亮廣 窪田正孝 えんとつ町のプペル

――好きの反対は嫌いではなく無関心、無関心と嫌いの距離が近いというのは興味深いですね。今作はそこに対するアンチテーゼなのかなとすごく思いました。

西野: そうですね。話を書いたのが2012年ごろだったのでそれが強かったのかもしれないですね。

――でも、なぜそれを“ゴミ人間”のプペルとして描いたのですか。

西野: みんな子どものときって漠然とした夢のようなものがあったと思うんです。「有名になりたい」「お嫁さんになりたい」「お金持ちになりたい」「スポーツ選手になりたい」とか。でも、大人になる過程でいろんな理由で夢に折り合いをつけて捨てちゃうじゃないですか。そんな中、みんなが捨てたものを大切に持ち続けている奴がいて。そいつは今まさにそれを輝かせようとしている。いい歳ぶっこいて夢を持ち続けている。

西野亮廣 窪田正孝 えんとつ町のプペル

 つまり、“夢追い人”っていうのは「人が捨てたものをまだ持っている」という点で、“ゴミ人間”である。周りからすると、折り合いをつけて夢を捨てちゃった自分がばかみたいだから、「輝かせるな!」とつぶす意識が働いちゃって、もう臭くて仕方がない。

 夢を持っている人が攻撃されるメカニズムはそうなんだろうなっていうことで、“ゴミ”はみんながもともと持っていた“夢の塊”。すごく大事にしていたものだけど、折り合いをつけて捨てたものの塊だから、みんなからすると不協和音。具合が悪い。見たくないものだということです。

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